面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

さて、どうなるか。

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今年は3回も脳のCTを撮った。先生曰く「もう、どうもありません。脳の血管もきれいです。大丈夫です」僕は質問する「どうも両手の痺れと、両肩の筋が後ろに引っ張られて、上に上がらず、痛いんですが。」若い医師は表情を変えずにパソコンの画面を見ながら「その痛みの原因は不明です。脳外科では問題なしです」僕は励まされているのか、放りだされているのか。総合病院なんだから、何処の科を紹介してくれたらいいのにと思うが、「では次は整形外科に行き、週に2回通院してください」と言われたら言われたで、仕事が出来ずに、お金ばかりがかかり非常に困るのは僕だが。

ということで、この痛みは痛みで我慢するしかない、という結論に達した。確かに「マジで脳が原因なら、即入院か、検査だろう」し、これまた仕事もできずに、困るのは僕なのだ。脳の手術をして、数か月、両足の太ももが歩く度に、粘着質の湿布を貼ったり剥がされたりする痛みがあった。歩く度にバリバリっと太ももに激しい痛みを感じた。しかしそれ以降、痛みは不思議と消えた。そして今度は両肩の痛みだ。次第に回復するかもしれぬ。ある作家の人が脳梗塞で半身まひになられた時の言葉で、一日中、片方の体にナイフが暴れているような痛みと書いてあった。こうなったら僕はたまらない。普段から短気な僕は耐えられない。気分が落ち着くはずがない。あたりかまわず怒り散らかしただろう。重い障がいの人は、その痛みだけでなく生活の不満不安、体が思うようにならないイラツキで心がいっぱいなのかもしれない。まずは今の気分を鎮めようではないか。夜、帰宅すると気分が落ち込む。やる気がおこらないのではない。ずんと気分が沈むのだ。猫たちが心配そうに集まってくれる。

瞑想せよ。般若心経を読め。般若心経は結局、日本のさきがけの研究者、中村元氏のものが一番いい。今風の超訳や作家の解説、説明は読んで無駄。やはり中村氏の訳が一番原書の肌触りがする。多少理解できない分は自分で考えることでだんだん分かるようになる気がする。般若心経から途中で寄り道し、平家物語や、他の宗派についての本も読んだがこれはいけない。折角の仏陀の教えも国家・政治というシステムに取り込まれ、他の宗派へのののしり合い、武力闘争のあけくれになるのが情けない。人は昔から私利私欲の生き物なのだろう。僕はぼくはもうそんなに長くないから、もういい。そんな欲は要らない。

病気になって一番良かったのは、これまで積んでおいた本を読めるようになったことだ。それでも自分に合わない本はどんどん処分し、次の本に出あう時間を作ろうと思う。今日読んでいたのが、漢字学者の白川静氏の90年の回顧録だ。白川氏の漢字の語源についての話はとても面白いが、氏が生涯をかけて著した漢字の語源についての大書に、異論、全否定を唱えていた漢字学者の事を知って、また寄り道…アマゾンでその学者の本を注文、明日にでも届くのだ。

ああ、その前に、夢野久作の「ドグラマグラの下巻」埴谷雄高氏の「死霊Ⅰ」も着くことだし、更に折口信夫の「死者の書」…こうして本を読むことを楽しみにしていると、気が付くと両肩の痛みの治まるような気がしてきた。さて、これから僕の体はどうなるか、頭の中はどうなるか。余命宣告のない、僕の残り時間 (実はみんな同じ)無駄な時間はないのだ。