面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

般若心経、般ニヤ~心経

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この年になり、般若心経に関心を持った。何でも気になりだしたら止まらない自分である。今や老人に話題の書。心を落ち着かせる経文が書いてあり、気がついたら母も習字がてら書き写して、仲間の婆さん連中とその内容を学習していたそうだ。どんなもんだいと思い、ページを開くと難題ではないか。現代訳、超訳、いろいろ読むがとりつく手がかりもなく、読んでいてもみんないい人、心落ち着かせて生きていこう、安心しな死んでもあんた、極楽行きだよ、もう少し頑張りなと、言われているような内容なのだ。つまり、色々考え過ぎずにひたすら祈りな的な教えなのだ。しかしそんなソフトな言い方で丸くなる僕ではない。結局のところ、岩波文庫中村元訳の般若心経に落ち着いたのだ。書かれてあるのは、この世は空、存在しないもの。存在しない世界の事に悩んでも無理無理、あんたの悩み、そもそもあんたも存在しないわけだから、そのことを会得するまで頑張りな~てな訳に理解した。バチ当たりな僕は調子に乗り、お盆に地元の納骨堂で、ご先祖さまに、覚えたて(一部)の般若心経を披露(誰もいなかったので調子に乗った、お墓に眠る皆さんお騒がせしてすいません…)し、鐘をちんちんゴンゴンならして、海に精霊船の代わりに小さな段ボールでご馳走に果物を流した。後で知るに、我が家は浄土真宗であり、基本、親鸞の加護のもと信者は守られていて、般若心径を読むのは不要らしいのだ。

まぁいい、僕の読むのは般若心経ではなく、般ニャ~心経なのだし、猫ども、みんなの幸せを念じて経典を読むのだ。素朴な疑問として、この世は空なのに、存在しないのに、宗教とはなんて大きな伽藍、お寺を建立してまで、経文を念じるのだろうかね?三蔵法師はこんな経典を探しに命がけでインドを彷徨った。生き物の中で言葉を持つのは人間だけ。猫の意識には生とか死という言葉はそもそもない。そもそもないのだから悩む必要はない。人は死を意識しだしてから、死について考える。例えば余命少ない病に罹り、病院のベットの上で般若心経を読むのは心が休まっていいに違いない。まもなく無になる自分が人の存在について無を説く、経典を読むのだからね。みんな間違いなく無になりますよ。

我が家の猫どもはもともと虚無なのだ。言葉もない、思考もない、明日もない、希望もない、争いもない、夜明け前、青い時間のなかで、みんな目を光らせて、夜明け前の虚無を見つめる三日月の瞳に囲まれて、僕も目を覚ます。かすかな虚無の光を感じて。

般ニャ~心経、般ニャ~心経。