面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

夏のギボウシ、会えて良かった。

 

前回の白鳥山から1か月以上も経ってしまった。山野草の達人Mさんのフェイスブック情報では、「フガクスズムシソウ」やら「ショウキラン」やらの、開花情報が紹介されていたけど、もう間に合わない。それでも、ダメもと、標高ゼロメートルの自宅を出たのが7月20日。(車の運転は町内限定免許ゆえ、家人の都合次第)もう真夏の山なのだ。標高1500メートル近い高地の峰越でも暑い。熱風が吹いている。緑の尾根道をドリーネを目指して歩く。気温がどんどん上がっていく。尾根の途中、ギボウシの着生したブナを見つける。緑の美しい葉を広げ夏空の下、白い茎を伸ばしている。茎の先には白いつぼみ。喜んでいいのか、開花はまだ。このこらが、鈴なりに一斉に開花する景色を想像するのも楽しい。

 

 

写真を撮った後、ドリーネ周辺でヤマホトトギスを探すが、すでに開花は終わり。残念ながら不思議な星の子は開花の時期を終えていた。ホトトギスには「ヤマホトトギス」と「ヤマジノホトトギス」の2種があり、見分けるのは簡単そうで難しいらしい。ユニークな花の形。上から星の形に垂れ下がった雄蕊(?)のスタイルは小さなメリーゴーランドに見える。なんと可愛いことよ。

折角来たのだからと御池あたりをうろつきまわる。数年前に山の守り神、Oさんに教えてもらった「フガクスズムシソウ」の着生したブナの大木が見つからない。(当然だけど…)それでも会いたい一心で森の中の苔むす大木を1本1本、訪ねて歩く。(また道に迷うわけにはいかぬが…)とうとう時間切れ、「ショウキラン」にも会えず失意のまま帰路に就く…。

と、途中のネットで保護された緑の茂みでカメラを構える同年代の夫婦。しばし情報交換するも、僕よりもはるかに山野草に詳しい。話していて己の無知が恥ずかしい。山鹿から来られたらしい。気前よく撮影中の蘭を教えてくれた。頭上の木の枝に咲く蘭の花も。

 

 

そして、フガクスズムシソウの件を話すと、「まだ、あの某所に咲いていますよ」とこれまた気前よく場所を教えてくれた。その某所に行くと、話の通り、ブナの古木に「フガクスズムシソウ」が茶色の花を咲かせていた。ただ暑さに参って元気がなかった…あと2週間、出会うのが早ければ!フガクスズムシソウは激減していて、今や貴重な花なのだ。ネットではスズムシソウ、ギボウシの詳しい写真、花の植生を分析、説明をされているサイトがあるが、今は再会できたことにまず、喜びを感じている。悪運の強い自分。花好きの夫婦に出会えたことは幸運だった。

 

 

何時来ても、五家荘の山には嬉しい出会いがある。もともとひねくれた性格の自分だけど、今回は、素直に出会いを喜ぶ性格の自分であった。

般若心経、はん「ニャ~」心経 2024

 

6年前の大病の後、もうすぐ自分も死ぬのか、死ぬかもしれないと思うと、そういう人向けのお経(苦笑)、般若心経を読み漁る事にした。わずか262文字の中に深い意味、世界が込められているそうで、まずは日本での第一人者、中村元教授の岩波の般若心経を買って読んだ。ありがたいことに岩波では文字を大きくした版もある。中村教授の般若心経は単純素朴に心経が訳してあるだけのシンプルな本なのだ。

僕は今、日本石仏協会の会員 (誰でも会員になれます) なのだけど、フェイスブックでも会員の集まりがあって全国各地の会員から、こんな石仏を見ました、発見しましたという情報が提供されている。ただその情報の中にさりげなく紛れ込む、商売目的のじいさんが居る。ひげを生やし、いかにもという感じで人の好い笑顔、自分で彫った石仏を紹介したりして販売している。どうでもいい下手くそな石仏に1体30万の値段を付け、完売とか書いている。このじいさんは石仏協会員に営業したいだけで、金儲け以外何の信仰心もないのだ。他の会員が報告している、草に埋もれた石仏に値段が付いているはずはないではないか。

話は戻すが、巷に出回る、般若心経の解説本も同じ。その著者らも下手な石仏を販売しているじいさんと同じ魂胆なのだ。そう簡単に理解できるわけではない般若心経を「誰にでも分かる」的な見出しで僕のような死後の不安(死んだら不安もありませんが) 病気や悩みを持つ人々に自分の本を売りたいだけなのだ。

その中で、ちょっと気になったのが作家の水上勉氏が書いた般若心経の本で、さすがに大作家の水上氏がそんな本を売って金を儲けようと思ったわけではなく、氏の本は身内に障がいを持った人が居て、その人についての思いを、氏は般若心経をモチーフに綴っただけなのだ。読んでいる途中、水上氏が幼少のころ、般若心経を暗記させられていた時の思い出話の中で、そういう知的な障がいを持った人に般若心経が理解できるのだろうか?という疑問を持った話の下りがあり、僕は考え込み、はたとその本を読むのをやめてしまった。

確かにどんなお経でも、人間の言葉で世界が構築されているわけで、その教えの中身を理解できるのは言葉が理解できる人間しかいない。お経の言葉に救われるのは、言葉の意味が分かる人間だけ。その人間も分かったふりして、さらに人に伝えていくわけなのだ。そういう意味では中村教授の般若心経は、素直にそのまま訳してあり、読む人がその人なりに読めばよいという内容なのだ。結果、いろんな解釈をして心救われたらよいし、高邁な解釈講義を唱えても、そういう人に限って、偉そうにして罰あたりなのだな。本にして営業することは無駄。まず、自分で読んで自分で考えたらよいではないか。ただし今の世の中、宗教、教えを妄信したらよいわけではないけど。

つまりつまり、そもそも犬や猫には言葉の意味も分からないから、彼らは単なる生き物として生きるだけで生の喜びも、死の恐怖も悩みもない、昨日も明日もない。今いるだけ。うちの家には総勢6匹の猫が居て、そのおまけに僕と家人が住まわしてもらっているだけで、エサを彼らに貢ぎ、かれら猫族に支配された世界に生かされている。彼らのために年金暮らし間近の僕は、スマホの中の銀行預金の残高をいつも気にしている。(家猫どころか、近所の住吉神社地域猫一族4匹にもエサをやらねばならん) 

猫族の虚無の世界に生かされて居る自分。般若心経ならぬ、飯の時間が近づくと彼らの「ニャ~、ニャ~」「ご飯まだかニャ~の、飯ニャ~心経」の声が響く。

色即是空。形があって、形はない。形はないが、形はある。形のない世界をコップの形で空をすくうとコップの形になる。形のない世界を自分の形で空をすくうと自分の形になる。もともとは形のない世界なのだから、実は何もない世界。自分も言葉という形のない、ケムリのような意識の世界に生きているから、意味を見出そうとすればするほど、空しくなる。実際、自分の形はどんなものだろう。そんなことを考えながら、昔のお坊さんはたくさんのお経の文字を刻まれてきたのだろうか。

4月に、溺愛していた猫の寛太が病気で死んだ。名前の由来はよく人を噛むから寛太。心が広く、寛大な性格だから寛太。8年前に天涯孤独の身で我が家の裏玄関の空き地にやってきた。カラスに左目をやられ成人しても左目はむくんで濡れていた。熊本地震の時も、車の中で一緒に避難した。アレルギー性で冬になるといつもくしゃみをしていた。今年の冬もくシャミが続き、部屋中、鼻水だらけだった。いつもより目と目の間が膨らんでいたが、人間で言えば鼻炎が化膿しただけと思い込んでいた。おかしいと気が付き始めたのは突然鼻水に鮮血が混じり始めていた時から。今度はカーテンが血だらけになった。町内の動物病院に連れて行ったが、その医者が経験不足で寛太の病気の判断が手におえずひたすら毎日点滴を打つだけだった。知人の猫友から熊本市内の病院を紹介され、診察を受け急いで深夜MRIを撮った時は手遅れ。鼻腔内に癌ができ、すでにがん細胞は鼻の骨を破り脳に達していた。急いでその日の夜に京都で動物看護士をしている娘が帰ってくる。寛太、寛太、寛太…そんな時でもみんなの兄貴分の寛太はよろよろと他の猫の毛つくろいをし、娘の膝の上に乗る。

次の日、もう助からない診断だが…家で点滴の準備をし、寛太の面倒を見る。寛太は娘の膝の上で窓からいつものように、おぼろげな瞳で窓の外の海を眺めている。寛太の目の前をいつもの漁船が通り、貨物船が汽笛を鳴らす。

夕暮れ、部屋の中も薄暗くなるが、明かりをつけないままにした。午後6時過ぎ、無音の世界。寛太の体に痙攣が始まり体が震え出し、寛太は娘の膝の上で息を引き取った。娘は一晩、布団の中で寛太の冷たい体を泣きながら撫で温めていた。

周りの猫たちは寛太が死んだ翌日、いつものように時を過ごしていた。彼らは寛太が居た毛布の上、箱の中に順番に寝ていた。(一時的にいなくなっただけで、いつか帰ってくると信じているのかもしれない)

 

色即是空、空即是色。

般ニャ~心経、般ニャ~心経。

 

ただの石の塊にもっともらしく目を彫り、顔を彫り30万で売るニンゲン。買うニンゲン。宝くじが当たると言いふらし、現金をせしめるのに忙しい神社。その神社を面白、可笑しく持ち上げる熊本のマスコミ。パワースポットだの御朱印だの自分だけのご利益とやらに、我先に列に並ぶニンゲン。どんなお悩みがあるのだろうか。

 

僕の脳はすでに猫化しているので、ニンゲンのような悩みはありません。

般ニャ~心経、般ニャ~心経。

 

あじさいの花の最後のひとしずく。

 

熊本もようやく梅雨入り。

先週から、車のハンドルを握ると、突然めまいのような症状が出て運転できない状況になってしまった。最初は車が揺れ出し、地震か?えらい風が強い?と感じたのだけど、そんなことはない、僕の脳内から発生しためまいが原因だった。熊本市内の事務所から僕の自宅まで川沿いの道に沿い帰宅途中だった。

 

その日はどうしたかというと、そのめまいを、我慢に我慢を重ね、渋滞の国道を通り途中の市のマクドナルドの駐車場で休憩。それでも回復しそうにないので家人の車で迎えに来てもらった。車の回収もあるので、更に20分程、頑張って運転し、更に家に近い公園の駐車場に車を停めた。

 

このめまいの恐怖というのは、6年前のクモ膜下の時の恐怖に近かった。この不安な頭の揺らぎが激しくなると、またクモ膜下が再発するかと思うとさすがに怖い。運転中に、症状が激化すると国道では大変だ。運転中は5分おきに左の路側帯に車を停め、深呼吸した。対向車、後続車…信号…ライトの反射光、左の街路樹の茂みの確認に意識が追い付かず、視野が狭くなる。体全体は浮遊したように落ち着かない。

 

いつもは、帰宅中のある奥まった公園に住む、地域猫の家族に僕は餌をやっていた。その子らの餌はどうしたらいいのだろう。その公園は県内では有名な紫陽花の名所なのだ。満開のニュースが報道度に、公園は一気に観光客で人と車であふれ、地域猫(シロ家族)チームは人間を警戒し、餌をもらいに行けない。シロたち、腹を空かせているだろうに。

 

めまいから1週間後の晴れた日曜日。勇気を出してカメラを持ち、シロ達への餌も積み込み、紫陽花公園に向かう。あ~どんどん、気分が苦しくなる…が、何とかその公園に着くも、満車、満員、予想通り車を停めるスペースさえない。車窓越しに見る紫陽花の色は梅雨前の真夏日の陽ざしに色あせたように見える。「やっぱり紫陽花は雨に濡れなくてはな!」そんな負け惜しみ、愚痴も出るが…帰りはどうする?…車が怖い…運転のプレッシャーが迫る。後続車が迫ると車を左に寄せ停車する。カチカチ…カチ…ハンドルにもたれ深呼吸。自分はいったい何をしに来たのだ。

 

カメラにはNikonマクロレンズを付けている。癌にガーンのトクナガさんに教えてもらった、伝説のマクロレンズ(60m 2.8)で、文字が擦り切れたくらい使い込んだタマをネットで安価で買った。このレンズで撮った写真をトクナガさんに見せびらかす予定だった。

 

つくづく勘違いしたらダメだ。子供の運動会のリレーに突然抜擢され、いい年して、ええ格好みせたろうと、カーブを曲がるところで足がもつれ、転んで肉離れして担架で運ばれる中年過ぎたお父さんみたいに、すでにゴールのテープを切る事が出来ない僕ら老年チームはあと5年、元気でいられるはずはない。そんなレースの参加は止めて、残された時間を写真で楽しもうではないか、トクナガさん。

 

自宅に近づいた頃、突然、空が曇りだし雨がぽつぽつ降り始めた。なんと悪運の強い事よ。自宅を通り過ぎ、町内の秘密の紫陽花畑に向かう。ここは何も公園化されてない、ただのミカン畑の横の紫陽花の群落なのだけど、やはり色が違う。(有名な公園は花を植えすぎて色が薄いのではないか)早速、マクロレンズの出番…時々、他のレンズも使う。

 

 

花の雫が時折雨雲から差し込む陽光に輝く。あふれる雨の雫、雫。

濡れて美しく見える花は紫陽花だけなのだ。

 

緑の白鳥山 (熊本 五家荘)

また白鳥山に行く。前回の雑文録にたいそうに「幻視行」なんてタイトル付けたが、その名のごとく、日常でもふんわり幻を視ている気分になった。今回は峰越ではなく、その途中のウエノウチ谷から、谷をさかのぼり御池、白鳥山頂を目指すルートをとった。これも数年ぶり。峰越からのルートは白い霧に包まれるルートだけど、ウエノウチ谷のルートは緑に包まれるルート。これまでの大雨の被害はないかと、恐る恐る沢の道の岩の上を歩く。一旦、谷に入るとそこは一気に新緑の中に体が溶けるような道となる。一瞬で、白鳥山の緑の世界に取り込まれるのだ。見渡す限り自然林の景色がひろがる。白鳥マジック。見あげると若葉と若葉が重なり合い、緑の影を織りなしている。

 

ただ残念なのは、これまでは苔むすブナの大木にはびっしり、緑の苔やギボウシなどの山野草が絡みつき、豊かな森の植生が見られたのに、今回は大風や大雨の影響なのかすっぴん。そういう景色は見られなかった。更に登り続けると、いつも休憩する谷の景色も一変、滝の上の大岩が崩落し、落差のある滝の景色が階段状の岩の落ち込みに変身していた。

しばし休憩、岩の間の小道に登ろうとしたが、緑の谷は一瞬にして白い霧に包まれ、風が吹き、小雨が降り始め雨脚が本降りに代わって来た。体が冷えてくる。このまま、御池まで登り詰めても仕方ない。運転役の家人も寒さで元気がないし、思い切って引き返すことにした。僕は遠距離の車の運転が出来なくなったのだ。不思議な事に、いつも気配を感じる森の神様の住まいが、穴の開いたまま、生気を感じる事が出来なかった。

また夏に来ます、山の神様。足元のタニキキョウだけが沈みがちな僕の心を慰めてくれた。

 

 

白鳥山 幻視行 (熊本 五家荘)

 

久しぶりに白鳥山に行った。樅木から峰越1480m(峠)を越え、宮崎の椎葉村に向かう車道が崩落し、長らく通行止めになっていたのがようやく解除されたのだ。ただ通行可能になったからと言って、荒れた道が整地されたのはともかく、崩落した場所は簡単な応急措置…というか、ほとんどが赤いコーンを立てただけの放置、ガードレールはだらんと垂れ下がり、谷底まで切り落ちて下を見るとぞっとする。そろり、そろり、なんとか車を山側に寄せて、進入禁止のロープすれすれに回避するような道ばかりなのだ。

 

白鳥山周辺に群生する芍薬の花の開花情報に誘われ、今年こそはと早起きし、頑張って山に向かった。峰越の登山口から尾根を伝い、芍薬の群生地に向かうルートにする。ところが、下界の天気予報は晴れにもかかわらず、峠に近くなればなるほど尾根には不気味な、もくもくとした濃い白雲が湧き上がり、まさかまさか、峠に着いた時は辺りは暴風と霧に包まていた。

 

連休でもあり、駐車場にはいくつものテントが張られ、数人の若い男子に出くわした。みんな山の雑誌から出て来たようなおしゃれな格好に半ズボンのいで立ち、ステイックを握りディパックを背負い、笑いながら順番にスタートした。あの格好では絶対寒いと思うのだけど。トレイルランなのか、走っているうちに体も温まると思って居るのだろう。後には、彼らと同じ今風の派手な登山ファッションで固めた老夫婦も続いた。みんなの姿はそうして、しゃわしゃわと湧き出した白い霧に包まれ、あっという間に姿を消した。

 

峰越登山口から白鳥山への尾根道は、それ程登り下りの激しいルートではなく、登山と言うより、僕にとっては山歩きと言った方が正しい。もちろん、その先の山に向かう人たちは登山なのだろう。天気が良ければ、しっとりとした湿り気のある小道で、歩きにくい岩もなく膝にも優しい。本来ならばこんな楽しい山歩きはないというルートなのだ。しかも、その先には、芍薬の白く清廉で、蓮のつぼみのような美しい群生が待っている。ただ今回のように突然、白い霧に包まれるのも白鳥山で、五家荘の山の中でも人気の山の分、たくさんの踏み跡もあり、その霧に包まれふと、踏み跡からはみ出すと、どれがどの道やら、一気に方角を失い、自分の居場所が分からなくなる危険な山でもある。ぐるりと見回してもうっそとした樹々の茂み、道を塞ぐ倒木の姿がある。白鳥山のやさしく白い鳥達は居なくなり、入れ替わり白い霧達がじわじわ忍び寄ってくる。気温は一気に下がり、風が吹くと、さらに体温が奪われる。7、8年前の5月に訪れた時はブナの木の根にいくつもの積雪があった。

 

今回久しぶりに歩いていて、尾根筋に根を生やしていたはずの倒木の多さに気が付いた。なんと悲しい事か。以前は巨木のまわりに、たくさんの苔やギボウシ、フガクスズムシソウなどがからまり、珍しい山野草の新芽が見られていたのに、その母なる巨木本体が倒れている姿があった。昔の豊かな森の記憶が、寂しい景色に上書きされる。森の小道を、花々を探して歩き、彷徨う、至福のひと時は過去のものか。海抜ゼロメートルの自宅から、2時間近くかけてやって来たのだから、先を急ぐのはもったいない。岩に腰を下ろし当たりを見渡す時間は僕だけのものにしたい。以前は先ばかり急いで歩いていた自分が、最近の山歩きでは遠くで物音が聞こえる度に立ち止まるようになった。

 

僕は夢想する。何本ものブナの巨木がもんどり打って倒れる。木々の葉が揺れる、枝がばきばき折れ飛び散る。鳥の黒い影が空に飛び立つ、鹿が跳ね起きる。何体も何体も、森を支える巨人、緑の巣があおむけに倒れて行く。そういう景色は想像できても、何故かその沈む音を聞くことができない。だから耳を澄ますのだろうか。この自然の森も死が近いのだろう。味気ない人工の森が足元まで迫っている。

 

峠から先行した老夫婦が引き還して来る。「芍薬はどこですか?」ヤマップのルート図が映る携帯を突き出す。携帯ではこの深山も小さく手の平に乗るサイズ、その地図では数センチで芍薬の群生地に着くはずだ。「あと1時間近くはかかりますが」五家荘で僕に道を聞くのは極めて危険だがね。夫婦は待ちきれず「帰ります」と言って山を下りて行った。

 

 

一瞬消えた白い霧が、また湧き上がって来る。白鳥山ではそんな景色が最高の景色でもある。ようやくドリーネの近くまで来る。ドリーネとはサンゴ礁が化石化しすり鉢状にへこんだた地形の名称。水に侵食されて奇岩が付き出したりしている。今は山の中でも古代ではここは海だったのだ。もともとはサンゴの白が、いまは緑の苔におおわれて、白鳥山のドリーネの景色は、巨大な白い像の背骨の群れが重なっているように見える。ドリーネの地形は鍾乳洞とも関係があるらしい。足元では丸く苔むす岩が転がり、小さな丘が出来てその岩々に白い可憐な芍薬の花が顔を出し始める。風が吹き、霧が晴れ、当たりを見渡すといくつもいくつも、両手で丸く手の平を合わせたような花弁が顔を出す、幻のような景色が見える。

 

柵で保護された、白い巨像のようなドリーネの森が見えて来る。リュックから三脚を出し、カメラを構えシャッターを押す。小道からはみ出し、岩の間に足を踏み入れ、芍薬を追いかけカメラを構える。踏み込んだ足元の枯葉の下に、空洞がありはしないか、時に恐怖を感じる事がある。石灰岩は硬そうでもろい。足を踏み込んで、ごぼっと空洞に落ちはせぬか。とっさにつかんだ岩が崩れ、自分が落ちた穴をふさぎはしないか。深い深い、岩の穴。助けを呼ぼうにも道から外れ、そう誰も気が付くはずはない。ドリーネの下には鍾乳洞がひっそり口を開けているのかもしれない。

 

白鳥山は謎の多い山でもある。ドリーネの横の湿地帯は御池と呼ばれ、雨乞いの行われた神聖な土地と言われていた。雨乞いが行われていた当時は今のような湿地ではなく、もっと深い沼地ではなかったか。今は泥で埋まっていても、場所により、深い穴が口を開いてはいまいか。雨乞いの神事は誰が行ったのだろう。椎葉から上がって来た修験者なのだろうか。

古代から神が降臨する場所は、磐座(いわくら)という岩場で、白鳥山の御池の磐座はこの大きなドリーネに注連縄(しめなわ)が張られ、自然の神、雨を降らす神を出迎えたのかもしれない。神秘の山、伝説に満たされた白鳥山。積み重なる歴史の山は昔、蒼い海底だった。

 

よく語り継がれる言い伝えで熊本側の話では山頂から5本の矢が放たれ、五家荘の地名になったと言われ、宮崎側からすれば、源氏の追っ手から逃れた平家の落人が山頂の白いドリーネの景色を見て、もはやこれまでと諦め自刃したとも言われる。この言い伝えは椎葉山一揆の悲しい伝承とも重なり、山人の暮らしの困難さはかなさを思わずにいられない。

 

五家荘の山で不思議なのは、国見岳、白鳥山と連なる烏帽子岳も、西の岩の尺間山、更に釈迦院まで修験の跡があるのに、これと言った石仏や摩崖仏の姿が見られない。地形や人口の少なさもあるのだろうけど、そういう仏様の姿は、時の流れに霧散したのだろうか。

 

気が付くと、足元にざわざわと緑のバイケイソウ群れが攻めて来た。こんな広く大きなバイケイソウの大群落は見たことがない。バイケイソウは、全草に有毒アルカロイドを含有し加熱しても毒は消えず誤食したら命の危険もあるそうだ。気温が上がるとバイケイソウの緑の葉からアルカロイドが発散されるのか、群生地のあたりは命の気配はなく、しんと静まり返っている。

 

 

こんな事を考えながら山に居ると峰越からドリーネまで、普通なら片道1時間少しの道のりを、たっぷり2時間以上かかってしまった。御池から先に進む意思は僕にはない。弁当を食べ帰路に就く。

 

尾根に倒れ、枯死した巨体の幹にギボウシ(?) の若葉が開いていた。ギボウシは緑の葉の間から茎を伸ばし、白いユリのような可憐な花を咲かせる。僕は山に咲くギボウシの花が大好きなのだ。巨樹の死体に芽生えた緑の若葉。これは希望なのか、絶望なのか。

 



 

尾崎放哉の墓参りに行く。99回忌。

 

尾崎放哉とは自由律俳句の天才俳人明治18年に生まれ、大正15年に41歳で亡くなった。自由律の俳人として有名なのは、尾崎放哉と種田山頭火山頭火は熊本にも所縁があり、投宿した木賃宿(織屋)が今もある。

 

だいたいの文系の男は若かりし頃、無頼派、ロマン派、放浪の旅にあこがれ夢を見る。友人K曰く、誰しも一度は麻疹にかかるようで、仕方がないと言うのだが、麻疹の熱が冷めると長い髪を切り、スーツを着て就職活動を始めたものだ。もちろんKも。ま、そんな話はどうでもよいが、だらだらと年老いて面倒臭いオヤジになった僕には今も麻疹の微熱が続いている。当初は山頭火の句に夢を見、その「分け入っても 分け入っても青い山」の向こうにロマンを感じたのだけど最近、妙に尾崎放哉の事が気になり、放哉の本を漁り読み始めた。

 

この両極端の天才俳人の事だけど、山頭火は放浪派、放哉は(やむなく)定住派。

 

山頭火は生きる為に、放浪し、友達もたくさん居て、宴会でみんなと酒飲んで、階段から落ち死んだ。あのお坊さんの格好は、生きたいが故のコスプレなのだろう。男のロマンなのだ。求道者なのだ。みんな酒に酔い、語り合い、騒いで大変なのだ。

 

山頭火の座右銘「おこるな しゃべるな むさぼるな ゆっくりあるけ しっかりあるけ」

(なんじゃい、「あいだみつお」の世界ではないか。居酒屋のトイレの洗面台で額に入れてある処世訓のようで、つまらない) 山頭火はたくさんの日記を残し歌集も残し、旅をした。

放哉もエリートコースから無一文に転がり落ち(今で言えば重度のアルコール依存症、酒乱なのだろう。誰かきちんと治療してあげればこんなことにはならなかったろうに) 途中、肋膜炎、結核で体を痛め、妻とも離婚。やる事なすこと、すべて失敗、上手くいかない。その時の心境は山頭火座右の銘「おこるな しゃべるな むさぼるな ゆっくりあるけ しっかりあるけ」そのものなのだろう。お母さんが亡くなっても葬儀に参加しなかった。重い病気を体に宿したまま、すっからかんとなり、お寺を転々とし、最後は小豆島の南郷庵(みなんごあん)でやせ細り独りで死んだ。放哉は自分に死が近いことを充分に承知し、句を読み、実際は餓死に近い死を選んだ。当時は肺病病みに近づくと感染すると恐れられていた。誰もそう簡単に寄っては来ない。ロマンも何もない。ただ壮絶な孤独のみ。そんな病におかされた放哉の世話をしたシゲさんのおかげで、僕らは放哉の句を最期まで読むことができた。

 

散文も入庵雑記の数編のみ。あとは借金の無心の手紙、ハガキの山。いいわけ、言い逃れ、わび状・・・。放哉は本当に無一文。須磨寺で撮影された写真を見ると、浴衣のような薄い着物をまとって軽い笑顔をうかべ、腕を組んでいるだけ。学生、社会人の時に映った写真とは別人なのだ。どこでどうなったのか、坂道を転げ落ちてゆく。何とか這い上がろうとしてつかんだ草も手の平から滑り落ち、どんどん転がり落ちてゆく、まさかこんなことになるはずがない。全身どろだらけ…そして最後は自分は俳句(詩)を書くしかないと自分の人生をあきらめたのだろう。

 

「自らをののしり尽きてあおむけに寝る」

 

僕の心は、放哉の句集読みこの一句に救われた。

 

毎晩、この句を読んで眠る。他人に迷惑かけるな、こうあるべきだ、頑張れ、努力せよ、社会の役に立て、などと言われても、なんか馬鹿馬鹿しい、息苦しい、努力なんてまっぴら、本物か?偽物か?だいたい人をそんな視線で見定めようとする社会には詩は生まれない。

 

これまでの数えきれない失敗、悔恨。僕もこの句のように、今も自分をののしり、眠りに落ちる。地上とは苦しい思い出ばかりだ。そしてこの句に救われるのだ、僕と同じ人が居た。

 

「夕べひょいと出た一本足の雀よ」

 

この一句も読む度に、心がほぐれて行く。この雀も、狭い机の上でパソコンを開くと奥から出て来てくれる。

 

小豆島、南郷庵に来て、わずか8か月。放哉はどんどん転げ落ちてゆく孤独の中で、俳句を3000近く詠む。独り部屋の中で、焼いた米を食べ、水を飲み、熱を出し、自分で注射を打ち、せき込み、血を吐き、孤独が句になる。

 

「追っかけて追いついた風の中」

 

風の吹く草原を、自分の後ろ姿を追いかけてようやく追いついた。そしてその後ろ姿は振り向き、どんな顔をしていたのだろう

 

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4月6日

僕は早朝家を出て、熊本駅から新幹線で神戸へ。神戸駅から私鉄に乗り須磨寺駅で降り、須磨寺に向かう。

 

「明日は雨らしい青葉の中の堂を閉める」

 

須磨寺で読んだ俳句の中で一番好きな句だ。境内を歩いて回り、新神戸駅から岡山駅に向かい、バスで岡山港、小豆島に向かう。土庄港に着いたのは夜。

 

4月7日

早朝6時に宿を出、コンビニで弁当買い、港で食べる。おそらく、埋め立てられた港で、当時の海岸線はもっと手前にあるのだろう。すぐに、西行寺に着く。放哉と山頭火の句碑が並んで立っている。この日は、放哉の命日で昼から西行寺で催しがあるのだ。三重の塔へ向かい、港を見下ろす。そこから歩いてすぐに南郷庵があった。放哉の墓に手を合わせる。

 

 

南郷庵は再建されたそうだが、作りは、正確に再現されたのだろうか?おそらく、この窓から海を眺めたのだろう。(館内は撮影禁止)カメラを出し窓からの景色を撮る。満開の桜。もちろん海は見えないが、下の民家がなければちょうど海が見えたのだろう。

 

「障子あけて置く 海も暮れ行く」

 

記念館の庭には大きな松の木が立っている。この木は当時のままの松の木なのだろうか?再建されたとしても、わざわざ松の木を移植することはないのだろう。当時の松の木のままと信じて乾いた木の幹にじっと手の平を当て、押す。

 

来年は100回忌。100年の時を超えても「放哉の句」は在る。

僕の麻疹の熱は覚めない。

 

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「わかれを云いて幌をろす白いゆびさき」

 

転げ落ちる放哉の旅路の途中、離別した妻の馨は、放哉の死の電報を知り大阪から、小豆島に向かう。

 

放哉の死に駆け付けた馨は、じっと真夜中の庵に目を据えたあと、庵に入って畳に膝をつくと、激しく泣いた。更に、棺の内壁にもたれて座っているすでにして骸骨のような放哉に近づくと、悲鳴に近い声をあげて泣いた。

 

放哉は一人、京都の一燈園に入る。その放哉に宛てた、別れた妻 板根馨の手紙

 

「私は必ず職業婦人になってお金をもうけ、あなたを引き取って、昔日の華やかな生活をさせてあげます。それまで待っていて下さい」

 

 

癌にガーン。

シャレにならない、オヤジギャグなのだ。多分、僕が癌になれば、知人のカメラマンのトクナガさんが如何にも言いそうな、本人の前で言ってはいけない部類のオヤジギャグなのだ。こんなギャグは言ったらダメと思えば思うほどつい口にするもので、言ったあと本人は「イャ、冗談、冗談上段の構え」とか言い、お茶を濁すのだろうが、そんな事を言いそうな本人がマジに癌になっってしまった。こんなオヤジギャグはトクナガさんが言うから面白いのであって僕が放ってもシラケるだけだから何も言わない。

トクナガさんとの付き合いはもう30年にもなるか。すでに70歳だぜトクナガさん。最初会った時は30過ぎて、すでに髪の毛が真っ白。本人曰く高校まで黒髪だったのに、鹿児島の工業高校出て関東の原発の会社で働いているうちに髪の毛が白になったそうだ。「あんなところ、長居はするもんじゃないです、死にますから、とっととやめて郷里の鹿児島に帰り、昔から関心のあったカメラマンになりました」と語ったが、あんなところがどんなところかは、詳しく話してはくれなかった。

頼んだ仕事は零細広告会社で働く僕が受け持つ、健康食品の会社の会報誌の写真の仕事だった。彼は相手見境なく親父ギャグを飛ばし、そのおかげで僕の心臓は時に停まりそうになった。社長室に通され、撮影が終わり一息ついて、機嫌のよい社長さんにカメラ談義を始め、もともと緊張すると、吃音になりがちなトクナガさんは社長をまえに「社長のボケ、ボケ、ボケ…」と繰り返し言い出し、普段は温厚な社長の口元の笑みが消え「ボケ」と言われるたびに顔色が変わるのを見て、もう限界と思った時に「レンズの焦点が社長の顔に合い、顔の立体感を出すために焦点距離を調整し、周りの景色をぼかすことで良い写真が撮れるわけ」で…その周りの景色の「ボケ具合がカメラマンの腕の見せどころでして」身振り手振りで熱演するトクナガさんの動きを見て、社長は「ボケ」の意味を理解しようやく笑いを取り戻したのだが、さすがに僕の手の平には冷たい汗が残った。

そういう付き合いの繰り返し今まで来たけど、ここ数年はトクナガさんは緑内障となり、いよいよ、カメラマンの仕事はしにくくなった。それからは「ピンとさえ合えば何とかなります」が口癖になり、僕は仕事上「何とかならない写真」もあると、若手のフリーのカメラマンに仕事を頼むようになった。

ある時、真顔で僕に聞いてきたことがあり、「私の悪口を言いふらす奴がいて、誰だろうと思っているんです」と相談を受けたことがあった。「機材は一流だけど腕は二流と、言いふらしている奴がいるようなんです」「そりゃ、いかんですね、そりゃ、言い過ぎだわ」と一緒にその誰かに向かいトクナガさんと僕は呪いの言葉をかけたのだが、今になって、その悪い奴とは僕だったかもしれない。

緑内障で目の調子が悪く、ピントが合わないので他のカメラマンの何倍もシャッターを切るトクナガさん。「ピントさえ合えば何とかなります!」(お客さんの前でも!)と豪語するカメラマンのトクナガさんに、たまにはと頼んだ仕事が、ある漢方薬局の社長の某勲章の受賞記念食事会の記念撮影だった。漢方薬局の社長も半分認知症におかされた曲者で、なかなか他のカメラマンには頼めない事情があった。食事会が始まり、優雅で滑るようなバイオリンの調べの横で繰り返し、関係者が入れ替わりその社長の素晴らしい業績をほめちぎるくだらない儀式なのだ。薬が効いているのかその社長は上機嫌だが、実の性格は気難しく、ちょっとしたことでも激高することがあり、その点だけは注意が必要だった。その「生の舞台」で正面切った戦いを挑んだのがトクナガさんで、そんなに写真を撮らなくていいという指示を無視して、ピントが気になる彼は車いすの上で仏さんのような笑みを浮かべる社長ににじり寄り、カメラで迫ったのだった。

カメラをいじったことのある人は分かるか、カメラにピントが来たら電子音で知らせる機能が付いているものがある。ピンと合わせに苦労するトクナガさんはその機能を充分に活用した。バイオリンの生演奏がうるさく集中できないらしく、カメラの音量を最大に調整したらしい。ピントが合うたびに遠巻きで診ている僕の耳にも「ピッ、ピピッ」と言う電子音が聞こえる。そして「ピッ、ピッ」と言う音が近づく事に気が付き、その漢方薬の社長の表情が曇り始める。彼の前にはしゃがんでカメラを構えるカメラマンの姿が迫る。トクナガさんがこっちを見た時に僕は大きく手を振り、こっちに帰って来い!と合図をする。僕のハウス!と言うふりを見てトクナガさんは指先でOKと言うマークを作り笑顔で返す。これ以上近づいたらダメだ。その社長との距離は数メートル。そんなにシャッター切らなくていい、もう充分なんだ、もうだめだ、逃げようと、あきらめかけた時に、司会者が演奏を終えたバイオリンの奏者の紹介をはじめ、会場の空気が変わり、みんなは一斉に拍手した。僕は大きく、もう一度帰って来て!と手を振り、トクナガさんを呼び戻した。

最後はみんなで集合写真を撮り、拡大し額に入れ漢方薬局の事務所に届けに行った。事務所の前にはベンツのスポーツカーが停められてた。社長はその額を見て上機嫌だったが、突然僕に「君はベンツに乗ったことがあるか?と聞きだした。「いゃ、そんな、ベンツとか関心ないです」と言うと、「ヤナセはけしからん、ハンドルやらなにやら、ほとんどが英語で書いてある、僕のような年寄りが分かるはずはない」と怒り出した。現金で買ったがもう運転方法も分からんからその金返せと電話した」と言い、真顔で「君、ベンツいらんか?」と耳元でささやいた。適当にお茶を濁し「そりゃぁ、けしからんです、ヤナセ」と言い、僕は逃げるように会社に帰り、しばらくしてその黒いベンツは無くなり、その持ち主は認知症の施設に入院し、そのまま帰らぬ人になった。

今年、もう一緒に仕事するのも最後かもしれんと、トクナガさんに仕事の電話をしたのだが、彼から帰ってきた返事が「ガンマ何とかの数値が400超えで、即、入院になりました。胆管癌のおそれがあり、近々、手術になりました。申し訳ないですが、撮影の仕事は受けられないです」と力なく答えた。

ここで立場が逆なら、彼が放つ言葉は「癌でガーン」と言うところなのだろうが、そんなオヤジギャグは「僕には胃炎…言えん」

トクナガさんよ、あんた「済生会」で癌の手術受けて「ダイセイカイ」となりますように。ある渓谷の写真を撮り、今年の夏に個展を開くと言っていたけど、渓谷からこれ以上写真を撮るなと「警告」を受けたわけだ。

5月に2回、6月に内臓の本番の手術。家族以外、面会も出来ない。ピントさえ合えば、何とか、なるんだよ。何とかなるんだ。

いゃ、僕の数少ない友人のトクナガさん。僕らの余生はピントが合わなくなってきたんだな。