面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

夢の2年間

今からちょうど2年前の2018年1月27日に僕は自宅でクモ膜下になった。原因は過労と睡眠不足だった。当時熊本では寒い日がつづき、車の温度計はマイナス2度を示していた。帰宅後、寝間着に着替え、テレビを前に座ったとたんに脳の血管が切れた。よく言われるように、頭の中がガンガンして、これまでにない激しい頭痛を感じた。体が重く、布団に入る気力も湧かない。冷え込む夜をしのぐために、こたつの中で体を丸くして夜を明かした。家の猫どもはいつもと違う僕の存在に刺激され、その部屋の中を足にバネを付けたウサギみたいに飛び跳ねて遊んでいた。海岸沿いの我が家では早朝の漁船の出航のエンジン音で夜が明ける。何とか激しい頭痛はおさまり、それでも後頭部にジーンとした痛みが残ったので、血行が悪いのかと、首の後ろにカイロを張り、車に乗り込んだ。

その日は土曜日だが、どうしても事務所に行かなければいけないし、パートのおばちゃんたちも寒かろうし、灯油を買いに行かねばならん。しかし、だんだん調子が悪く頭が重くなってきた。救急車を呼ぶにもどうせ家まで来てくれるに1時間はかかるだろうし、自分で運転して、以前お世話になった、脳外科に行こうと決めた。あと1時間の我慢だ。途中、ものすごい船酔いのように頭が重くなり、たまらず車を道路わきに停め体を休める。突然、ハンドルにしがみついたまま、口から昨夜の消化不良できない食べ物をフロントガラスの内側に滝のように吐き出す。しかし、このままではどうにもできない。体を半分斜めに傾けハンドルにしがみついたままあと30分、あと30分とアクセルを踏む。交差点を右折し、川沿いの道を走る。幸い土曜日で車の往来も少ない。やっとの思いで町はずれの脳外科にたどりつく。そこで僕は脳のCTを撮りクモ膜下出血と診断され、救急車を呼ばれ、それに乗り込んだ。「ほんとうにクモ膜下?なのかな?」救急隊員の声がきこえる。「先生の診断だからな」僕は市内の総合病院の脳外科に運ばれ再度CTを撮った。僕の脳の動脈にできたコブは昨夜破れ、脳内に出血していた。しかも上下2個も。

 

血圧を下げる点滴を右腕に下げ、僕の手術は2日後の月曜に決まった。緊急に手術することはないようだった。頭の中に、パソコンで見た四国のよくできた葬儀店のCMを思い出していた。ちょうど1週間前くらいに見たものだ。ローカル線の4人掛けの座席に老齢の男4人が座り会話している。男の一人が小さなぬいぐるみを抱いている。「孫がおじいちゃんが寂しいだろうから」と持たせてくれたんですよと笑う。4人の名残惜しい顔が列車の汽笛で、一瞬だまる。みんな何か静かに決心している。4人の向かう列車は死に向かうのだ。次のCMは老齢の4人の女性。先に逝った旦那に会うことを楽しみにしていると一人の女性が笑う。そしてみんなもつられて笑う。そんな4人の列車も汽笛を鳴らし、いよいよ出発する。みんな緊張した顔だが、覚悟している。こんな時によくもそんなCMを見て、よりによって何度も頭の中でその画面が繰り返されている。手術まで時間が経つのがえらい長い。無理をいいテレビを借りてもらい、ちょうどベッドの枕の左に置いて顔を左に寄せて見る。日曜の夜。ちょうど見続けていたNHK大河ドラマ、「せごどん」を見た。西郷隆盛の母が亡くなり、西郷は母を背負い桜島を眺めて涙を流していた。なんと縁起の悪いことか。僕も死んだらどうなるのか。刻々と手術の時間が迫ってくる。繰り返し思う。死んだらどうなるのか。もちろんその答えは自分で死んでみないと分からない。

 

いよいよ手術の朝、麻酔担当の医師の説明がある。一見オタク風の若い医師だ。なんだか友達になれそうだが、さて、どうか。手術室に運ばれ、ガラスの吸入器を口に当てられるとすっと気を失う。彼の麻酔の腕は確かだ。目が覚めると、世界は変わっていなかった。午前11時から9時間後の午後8時。僕は生きていた。その9時間の間に僕の右の額は穴を空けられ、動脈の分岐、上下にできた2つの破れた瘤にチタン製のクリップを挟まれ、ついでにその横の動脈にも、一つ、合計3個のチタン製のクリップが閉じられ、開けられた頭蓋骨は再度閉じられた。

 

クモ膜下になると、約3割から4割の人が亡くなり、残り約3割が麻痺や大きな障害を持つという。なにしろ命と引き換えに一番大事な脳の神経をいじるのだ。そして強運の3割の者が社会復帰をする。多少の障害があるにしても。

 

手術後、リハビリの1か月を過ぎても、ネットでひたすら、クモ膜下について調べた。後遺症は?余命は?いくら調べても患者同士の交流サイトさえも見当たらない。時折、見つけても、リアルタイムで持続されているものはなかった。みんな不幸にもなくなるか、パソコンをいじる気力もないのだろう。何の薬がいいか、どんな運動がいいか、クモ膜下で障害、麻痺の残る人はパソコンする暇があるならリハビリするしかないのだろうか。

僕にも軽い障害は残った。数字が認知できない点と、記憶力の低下。午後2時に待ち合わせで、家を平気で午後2時に出る。これでは間に合うはずがない。また15時と午後3時の違いが認識できない。何度も繰り返すうちに頭が混乱してくる。テレビのタレントの話にいらつく。大勢の人の話にも腹が立つ。あと、手術から半年過ぎた10月にてんかんの大発作で救急車の世話になる。おかげで2年間の運転禁止の身になった。仕事はこれまで通り、続けることにした。車の運転ができないのでJRを乗り継ぎ片道2時間の道のりなのだが。

 

今でも、夜中に頭痛がある時、もしかしたらこのまま死ぬのかもしれないと思う。死んだらどうなるか。あたたかい毛布にくるまれ、猫の寛太を腕枕にしながら。寛太の寝息を感じ、背中をなぜながら、気持ちのいい寝顔のままで。死んだらどうなるか。誰にも死はやってくる。死ぬほどの痛みがあったとしても、最後は優しく死に迎えられるのだろう。心の準備ができようができまいが、泣こうが騒ごうか、すっと、迎えられる。あんなCMのように、列車に乗せられたら、中には座席を飛び出す人もいるだろうに。

 

あの日から、ちょうど2年。僕は夢の中にいた。「生きている実感」というのは本当は、死んでみないとわからないのだ。「死んだらどうなるかも、死んでみないとわからない。」

死後の世界だの霊だの言う輩の言葉はすべて虚言。そんなこと言うなら、一度死んでみてもらったらいい。これからも僕は僕の夢の中にいる。

 

猫どもはそんなことはとっくに分かっている。

 

※過去のブログにも同様の事を書いていた。2年後の今の気持ちが今のブログなのだ。