面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

健次と春樹 2019

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命が助かって一番良かったのは、(もう一度死んだ気になって)やり直せることだった。あの日、そのまま死んでいたら、スット何も残らなかった。いくら悔やんでいても、やり残したことがあっても、死ぬ時は死ぬのだな。そうなってからは手の打ちようがない。病気の前、ほとんど本を読む時間はなかった。「積ん読」だけだった。何時か読もう読もうと思い、買った本が部屋で山をなす。それが今は通勤片道2時間。その列車の車内でこれまで「積ん読」していた本を少しづつ読み始めることができるようになった。

村上春樹出世作風の歌を聴け」の文庫本。改めて読み直すとあれ?こんなシーンあったっけ?と驚く。僕が20歳の頃の本、なんと今から40年も前の本なのだ。主人公達の都会暮らしの、おしゃれで生活臭のない喪失感。この喪失感があの当時の空気を書いたものなのだろう。その後、読んだのが、部屋の本棚に紙魚だらけで眠っていた中上健次の短編集「18歳、海へ」。この作品は藤田敏也監督に映画化されたりして、夏の朝、僕は岩倉の下宿から一乗寺京一会館へ自転車のペダルを濃いだ。この本は作品と同じ、僕が18歳頃に買って読んだものだ。「風の歌」と真反対。内容は今も良く覚えている。田舎から出てきた主人公の焦り、迷い、悩み。やることなす事うまくいかず、心が落ち着かず、ちぐはぐで苦しい。混とんとした内容がその当時の僕の心に重なり合い、あまりの悔しさ、息苦しさに、僕は「18歳、海へ」に収められた全部の作品を読む終えることはなかった。中上の好きなコルトレーンの演奏の激しさのような文章は今よんでもしんどい。この2冊。春樹と健次、こうも内容が正反対の作品、時代のとらえ方があるものか。若かりし頃の本を読み比べ、読み直しをするのも面白いものだ。中上はいつ死んでもおかしくない程、自分を追い詰め、作品に没頭しそして早逝した。村上はたんたんと今も作品を書き続け、毎朝のランニングは欠かさないそうだ。

高校時に乗っていた同じディーゼル列車のガラガラの座席に乗り、ページをめくる。客はまばらで時に僕一人の時もある。車窓の景色もほとんど変わっていない。海沿い、国道添いの道で過疎化した風景が続く。僕は列車に揺られながら眠りに落ちる。ふいに揺すられ「18歳、海へ」を握りしめ、はっと目を覚ましページをめくる。

18歳の頃、中上も同じく和歌山の鈍行に乗り、高校時代東京へ行く夢を見、東京に出てタバコに酒、ジャズにどっぷり浸かり作品を書いた。僕は今更、東京に行く予定はないが、暑苦しいままで中上健次と同じ夢を見たいと思う。

僕の眼の前の座席でスマホに目を細め、ただひたすら時間をつぶす若い君よ。座席を独占し、タブレットでゲームに興じる君よ。静かに目をつぶり、杖で体を支え揺られる老いた男よ。あと10年したら君たちは何処に居る?何を思う?僕は多分、このまま、行く当てもないから、この列車で行ったり来たりの時間を過ごすだろう。

※それにしても書店に村上春樹の文庫は山ほどあるが、中上健次の本は皆無なのは残念だな。