面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

羽の生えた石仏

 

何しろ日本石仏協会会員で新人なのだ。早速、熊本県内の石仏をネットで調べながら、写真を撮って回った。草に埋もれた石仏、苔で緑に覆われた石仏と出会えば出会うほど濃密な時間を感じる。オタクの世界にどっぷり。道端で背中を丸め、カメラを構えている中年の男を許してください。但し、話しかけない方が良い。彼はまともに応答は出来ません。

今回は熊本から、フェリーに乗り長崎、島原に遠征。いつもの古書店で発掘した潜伏キリシタンの石仏集を手掛かりに、羽が背中に生えた少年の石仏を訪ねて回る。熊本、天草の崎津にも羽の生えたお地蔵さんの像があり、その名は「ウランテラ様」と呼ばれている。ウランテラ様の羽は平面的である。もともとは今富(いまどみ)地区という奥まった集落の墓地に祀られているのを発見され、県の資料館「みなと屋」のガラスケースの中に今は展示されている。ウランテラ様は、本当は地元に帰りたいのだと思うのだが。僕も現地を探し、汗をかいて小道を登り詰め、里山の景色の中のウランテラ様の姿を目にしたかった。今富地区は明治維新後、信教の自由の時代になってもカソリックに改宗せず、潜伏キリシタンの教えを頑なに守り、信仰が途絶えた地区なのだ。しかも、その地区の世話人は山伏だった。

潜伏キリシタンが信仰している教えは、今も、正式な神父の洗礼を受けていないので「邪教」のまま。天草の乱が起こったのは1637年。南島原原城に立てこもった潜伏キリシタンの信徒、約3万5千人は政府軍の兵糧攻めに遭い全滅。ウランテラ様も島原の羽の生えた石仏も天草の乱の前後に建てられ祀られていたのだろう。みんな一緒に天国への階段を登る夢を見る少年少女の像たち。

島原港から車で約1時間。口之津町のある神社の社殿の中に天使の像があり、大事に祀られて居た。当時の口之津の住人は総勢3千人。天草の乱には全員参加で一つの村の人間が消えた。天草の崎津もその数に近い人が亡くなった。町の資料には、当時の各村の人口と乱に参加した人口の表がある。乱の後も厳しく取り締まるための資料なのだろう。天使の羽の石像は乱の後でも誰かにかくまわれ、その後もぽつりと残されていたのだろう。

 

 

身長は約60㎝くらいか。お堂の中は清潔に清められ、両脇には榊が置かれてある。緑の服をまとい、目は見開かれている。400年近い時空を超え、天使の石像を同じ空間で見つめ合う奇蹟の時間。何も話すことは出来ないけど、天使の像の存在は僕の心の中で、当時の人の思いを形に変えたシンボルのひとつになる。この像の画像をながめながら、僕はこれから極私的にいろいろな思いに耽りたい。

 

途中の海岸では、原城に立てこもった信徒が、死んでも天国にいけますようにと祈った「天号石」が祀られてある。天号石は乱の後に発掘された祈りの石なのだ。

 

 

最近の地域興しとやらは、伝承された地域の文化、祭りなどを利用し安易に集客に使う。無知は無知なりに、地域の為に頑張る姿を見せつけ、観光客を集めるが、無知が故、なんでもありの行為が見苦しいものが多々ある。使えなくなれば、予算がなくなれば、地元の文化をいとも簡単に捨て去るのだ。熊本でもそんな無残な事例が多発している。熊本の天草のキリスト教の信者は人口比の5%未満。長崎はそこまで低くないのだろうけど、他県から天草に来た人の中には、島民のほとんどをキリスト教の信者と勘違いしている人も多かろう。(さすがにそんなことはないか!) 数年前、「天草をサンタクロースの聖地にする」というお馬鹿なプロジェクトが全国的に有名なプランナーの企画でスタートされ…(北欧からサンタを天草に呼ぶまでした) どんだけ予算をつぎ込んでも「地元にはなじめないからその企画は中止」という赤っ恥をかいた事業がある。(そんな恥もすぐに忘れる…恥と思わないから)

 

行き来のフェリーの船尾を、幾羽ものカモメが追いかけて観光客を喜ばせていた。昔「カモメのジョナサン」というベストセラーの本を読んだことがある。ジョナサンは群れから離れ、自由に羽ばたき、自分の速度、限界を試していた。古参のカモメたちからは批判され群れからも追い出されようとした…確かそんな内容だった。ちょうど同じ頃、「ハチのムサシは死んだのさ」と言う歌謡曲が流行った。ハチのムサシは向う見ず、お日様に戦いを挑んで死んだのだ。僕は「ハチのムサシは死んだのさ」と言う歌が大好きだ。今でも。