面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

猫に餌をやりに行く。(1)

 

僕の住む町は半島の突端、小さな港町。過疎化が進み、道を歩く人影も少ない。岸壁で釣り糸を垂れる人々は魚が釣れないと昼間でもさっさと竿を終い、次の釣り場に出かけて行く。昔はトンビも居たが、飛び交う鳥の姿も見なくなった。海風にさらされ、こうして、僕が生まれ育った町は朽ちて行く。廃屋の庭を埋め尽くした雑草、電柱に絡まるツタの先の葉が風もないのに揺れている。

 

市内の小さな仕事先には、半島の北側を海沿いに沿う国道を車を走らせ通勤している。ハンドルを握る助手席側の景色は遠浅の海の灰色の景色が続いている。広く遠く、弓なりの紋様が重なる海。その遠浅の海を、少しづつ埋め立て、昔の人々は自然の領地を侵食し自分らの領地を増やしてきたのだろう。道の途中のドライブインの廃屋。ペンキの禿げた灰色の壁。放置されたままの木造の家屋。その奥に、エロビデオの自販機の灯りが不気味に点滅している。そんな景色を眺めながら20年も車を走らせる朝、今日もいいことが何も起こりそうもない。ラジオから流れる女のパーソナリティー、いつも軽薄に喋り過ぎだ。

 

車を走らせ、ちょうど30分程経った場所で、国道から信号を左に曲がる場所にこんもりと丸く茂った森がある。その森の入口には石の鳥居があり、階段を登りつめた奥には神社がある。その森も以前は、海に浮かぶ小島だったのだろう。その島を結ぶ砂の道が埋め立てられ今は車でその神社の森をぐるりと回る事が出来る道もできているのだ。ちょっと前までは、アジサイの咲く公園として観光化され、花が開花する時期には小さなイベントが開催されていた。

 

アジサイの時期に限らず、その森の周りをぐるり歩くのはいい運動にもなるらしい。神社の鳥居は正面とは別に森の真裏にもある。その裏の鳥居の前の広場には、海苔の養殖の栽培用の棒や、平たい船が逆さに山積され漁業の作業場にもなっている。その周辺にも港があり、水揚げされた魚を欲しがる猫が増え、作業場の資材のすきまは格好の野良猫の住処となり、立ち寄ると数匹の猫が寄ってきた。兄弟の子猫。愛想よいキジ猫が足元にすりより、少し離れた草むら影から黒猫がじっとこっちを見ている。たまらず、餌をやるとキジは喜んで食いつき、黒のほうは警戒しながら餌に向かい、じりじり寄って来る。その場を去り遠くから様子を見ると、黒は急いでカリカリを食べ始める。行く度にキジは、愛想よく寄って来る。このまま、抱き上げて家に連れてかえっても良いくらい可愛い。しかし、二人は兄弟、こうして生きて来たのだ。弟なのか「僕が餌を何とかもらうから兄貴、待っていてくれよ」そんな声が聞こえるのだ。腹を空かせ、僕のような気まぐれの人間が立ち寄るまで、じっと飢えを耐え、寄り添いながら生きて来た子猫の兄弟なのだ。

だけど、しばらくするとその公園の茂みから2匹の姿は消えていた。