面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

アジサイを見に行った。

昨日、梅雨の晴れ間をぬって、住吉公園(神社)のアジサイを見に行った。外見はアジサイの花は満開だが、1週間ほど開花時期が過ぎていたので、花びらも精彩がなく、疲れ気味だった。来客だけが多く、猫の額ほどの駐車場はあっという間に、満車になった。みんなぶらぶら残念そうにアジサイの植え込みを見て時間をつぶし、アリバイ作りに旬の過ぎたアジサイの花をスマホで写真を撮って回っていた。コロナ対策で入り口に「見学は20分以内で」という看板が責任放棄のようで皮肉に読める。そう言う前に、公園をもう少しきれいにした方がいいと思った。大げさに言えば、アジサイを育てる、愛情が感じられないのだ。下草を刈ったり、もう少し手入れをすればもっときれいな公園になるのに。裏手に回ると木作りの鳥居がある。そのわきにかすかに赤いアジサイの群れを見る。このあたりには以前から、近くに小さな漁港もあり、野良猫が数匹いたのを思い出す。

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この鳥居をくぐり、坂を登ると、白い灯台がある。今回は人も多いので帰ろうと思った時に、家人がアジサイの葉の茂みの中で「ナナフシ」を見つけた。家人は不思議な能力があり、僕が何も見つけられない時に何かを発見する。去年は、深山で鍾馗蘭(ショウキラン)を探して見つからない時に、木の根の隅で珍しい「スッポン茸」を見つけた。そのサイズ、2センチ。この茸は普段の山では探してもまず見つからない逸品なのだ。

ナナフシはどんな山にも居るが、とにかく大人しい草食の虫だ。竹に擬態しながら、(絶対に見つからないと信じて)体を揺らしながら移動する。ぼやぼやしていると、鳥に食べられたり、肉食の虫の餌食になる。

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アジサイとナナフシの組み合わせは余り絵にならないが、ナナフシも踏ん張っているので一日の記念にと写真を撮る。

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両手を踏ん張り、何か口をもぐもぐさせているのがかわいい。外敵に食べられたナナフシのお腹の中にある卵は、消化されずに、鳥の糞の一部として各地にばらまかれ、種のような卵からナナフシ君の子孫が生まれ、あちこちで踏ん張り、か弱く生きる。

 去年の秋、たまたまこの公園のトイレの横で子猫の姉妹と出会った。尻尾の曲がったキジ猫は、一生懸命鳴きながら僕に付いてくる。とても人懐こいのだ。僕はその時「確かに君にどこかで会ったような気がした」とにかく、足元に寄り添い、どこまでも付いてくる。彼女の後ろには、赤と黒のはじけたような柄の猫が距離を置いて様子を見ながら付いてくる。あまりにもおりこうさんで可愛いので、コンビニで猫の餌を買い、二人に山盛りごちそうする。お腹がすいていたらしく、二人はがつがつ餌を食べる。本当に申し訳ないが僕は家に帰らなければいけないと、秋の夕暮れ、二人を残し公園を去る。後日、どうしても気になり、また公園を訪ねると、二人はトイレに横に隠れ、警戒しながら出てくる。僕は買ってきた餌をまたごちそうした。その時、僕のこころは半分、この二人を引き取ろうかどうかどうか、迷っていた。常識では、猫を捨てる人間がいるからこうなるという意見があり、更にそんな捨て猫に餌をやる人間がいるから、また捨て猫が増えるという意見があるのは充分承知の上。コロナ対策でアジサイの鑑賞時間は20分以内にという薄汚れた看板と一緒だ。その看板を立てた以上、責任は取りませんという意思の表明なのだが、何かもやもやしたものを感じる。くどいようだが、もう少し愛情もって公園を管理しなと言いたい。アジサイもちゃんと育てないから、いくら花がきれいでも、全体が薄汚れているではないか。それからまた数週間、もういないだろうと思いながら公園に行くと、まだ二人は待っていた。考えに考えた挙句、どうしてもうちの家ではこれ以上猫を増やすことはできないという結論を僕は出していた。すでに総勢7匹。だから僕は君たちに別れを言いに来た。餌を与え、もうついてくるなと、車に乗り込み公園を去る。「以前、どこかで会っようなきがする君たちよ」あれだけ愛嬌があるし、誰かに拾われるか、いや、そんな甘いことはないだろうが、とにかく二人の幸運を祈るしかない。そして未練がましくも4回目の訪問。冬を前にした公園の樹々は枯れ、森に住むカラスの群れが灰色の冬空を飛び回る。二人の姿はなかった。

もちろん、昨日の午後も。