面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

2023年 そんたくの夏

 

ようやく暑苦しい高校野球が終わった。早く、夏休みこども電話相談室が聴きたい。(放送終了?)今年の夏は子供たちの頭の中も謎だらけだろうな。

猛暑の日々、10分に1回はラジオから繰り返される「危険な暑さです。外での運動は控えましょう」という暑苦しいアナウンサーの声。その声が一瞬で高校野球の声援の声にかき消される。不謹慎な発想だけど、高校球児が、熱中症でマウンドで倒れグラウンドを担架で運ばれる姿を想像する。主催者のオヤジの自慢話にバタバタ観客席の生徒が倒れる姿を想像する。そうとなれば「だから、いわんこっちゃない」という手の平返しの大合唱が始まるのだろう。その選手たちも秋になれば「ドラフト」という人権無視の人買いのステージで高値で売りに出される。たかが18歳かそこらの子供に、億の値段を付けるのはやめた方がいい。せめてその価格の1割は国連の難民キャンプに寄付しなはれ。なぜ、高校球児のやりたいようにさせないのか。

長髪のチームが話題をさらったが、そもそも今の時代でもブラック校則があることが問題で、長髪どころか、未だに靴下の色やラインに校則で子供人権を守らない幼稚園、学校があること自体が問題なのだ。「指導死」など、変な言葉をマスコミが作るから、道端で人を殴れば暴行だが、先生が学校で生徒を殴ると指導死、指導暴行で罪に問われない。校則の方が刑法より優位なのだ。誰も長髪の可否以前、子供の人権の事について何も問わないそんたくの夏。この風潮は僕の高校時代の40数年も前から進歩どころか退歩している。校長、教頭を定年退職した同級生が数人いるが、僕は彼らを少し軽蔑している。

戦争の敗戦を終戦と言い換えて、屁とも思わない我が国。放射能の汚染水を「処理水」と必死で言い換える大人たち。デブリを10年経っても1gも取りのぞけない「制御不能の事故原発」からの汚染水。30年どころか1gも取り除けられないのなら、少なくても数100年は汚染水を垂れ流さざるを得ないのだ。その汚染水は雲になり、台風でまた日本全土に降り注ぐ。
 
途中でまた地震でも起きれば、事故原発の汚染水の放射能の濃度は一気に濃くなる。しかも誰も修理に手を付けられない。きちんと管理された原発の汚染水ではなく、あくまでも事故で壊れた原発からの汚染水なのだからね。なぜ、専門家はその壊れた原発の事を問わないのだろうか?簡単な問いさえしないマスコミの連中はどうしたものか。早速中国に責任転嫁を始める自称愛国者。国内で福島の漁業者を誹謗中傷する自称愛国者は恥を知れよな。そもそも原発を爆発させ、世界を放射能の恐怖に陥れたのは日本ではないか。原発事故の加害者は日本なのだから被害者となる世界の国にはお詫びの姿勢を示さないと誰も信用してくれそうにない。嘘つきが嘘言ってもね。
 
と…うだうだしていると、24時間何とかの番組が始まった。タレントが100キロ走るより、福島の沖を汚染水の流れにまみれ、5キロでも遠泳してくれたら見直すのにな。
 
産業汚染については我が熊本は先進県。水俣病でどれだけ人が苦しんでも、県政は本気で救済に取り組もうともしない。その代表が知事なんだけど。原一夫監督の映画「水俣曼荼羅」で世界中に恥をさらした、カバ知事が今度は、台湾の半導体の工場で熊本の水を汚染しようと、しているのではないか。彼は無所属と言いながら、自民党丸抱えの県知事で虚言癖がある。用心せんとな。
 
ま、7月に僕の撮影した山の写真について、話を聞かせてくれとか言う話が合ったが、そのブログの中で熊本県の自然保護の無能無策ぶりについて、ちょいと悪口書いたからか、ぱったりその話はなくなった。僕は公務員でもなんでもないから、それくらいのことはどうもないが、最近、じわじわ感じるのは、田舎特有の「真綿で首を絞めるような」気配なのだ。「やさしい村八分」。もう60過ぎて歳だからこそ、言いたいことを言おう、書きたいことを書こうと思い始めた。
 
「させていただく」「させていただきました」そんな言葉に取り囲まれる暑苦しい夏。何も本音で語れない、田舎住まいの、そんたくの細かい網。その細かい網の目をくぐるのは、小さな名もない雑魚でしかない。折角、海の近くに住んでいるのに、潮の香りを感じることが出来なくなった。