面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

縄文聖地巡礼と坂本さん。

 

楽家坂本龍一さんが亡くなった。

去年知ったことだけど、坂本さんも縄文ファンだった。

 

隣町の床屋のオヤジ(高校からの友)に、

坂本さんのような髪型にしてくれと言う。

オヤジは「そがんこと、でけん」と答える。

仕方ないので後頭部を大分刈り上げてもらった。

 

去年の秋、天草の図書館で潜伏キリシタンの本を漁っていた時に、書架の中から運よく「縄文聖地巡礼」を発見(発掘)した。2010年5月発刊。パラパラページをめくり「これは買わんといかん!」と思い、帰宅するやいなやアマゾンで買い求めた。

宗教学者中沢新一氏との共著で、二人で北海道から沖縄まで日本中、縄文の聖地を巡礼しながら現代の文明を自問し、批判する内容だった。

 

縄文時代は今からおよそ1万2000年~2000年も前の時代 (約1万年続いた) 世界でも類をみない日本の文明なのだ。農耕文化が定着し「国家」というシステムが出来、争いが起こる前、人々が自然とともに共生し、生きた時代が日本列島にもあった。(ジョン・レノンの名曲「イマジン」そのものの世界とでもいおうか)

 

その時代の中で人々は数えきれない土器、土偶を生産した。それだけ表現する意欲、高い能力があった。今のAIなんて勝てるはずがない。

 

「国家」というのはつまり「縄張り」。国を成り立たせるために貨幣が出来、貨幣でモノやコトを手に入れ、人を支配するというシステムで国家同士はそれを奪い合う。そのシステムは今も続き、誰も抜け出せない。(誰も抜け出せないまま世界は滅びる)

 

縄文には「貨幣」も「縄張り」もなかったと中沢氏は言う。縄文には貨幣の代わりに「贈与」というシステムがあり、相手からの贈与のお礼に、何かを贈り返し、また贈る。贈与とは均質なものではなく「思い」。そんな世界があれば、戦争なんて起りえない。いくら厳しい自然環境の中でも、縄文時代が1万年も続いた理由とも言えるそうだ。同じ部族が家族として一緒に埋葬されている墓地も多数発見されている。殺し合いの跡なんてない。

 

縄文から弥生に時は流れ、農耕文化とともに中国大陸から朝鮮半島から「国家」が日本本土にやってきた。一気に情勢が変わる。「国家」同士で殺し合い奪い合う。去年、初めて佐賀の吉野ケ里遺跡を見学した時に僕はぞっとしたよ。集落の周りには堀が掘られ、先のとがった杭が並ぶ。集落にも厳然とした身分の差が出来、有力者は死んだら茶色いカプセルの中に入れられ土に埋葬される。遺跡にはその茶色いミノムシのような棺桶が果てしなく埋葬された跡がある。中には首のない死体も埋葬され骨になっている。おそらく、戦で首を落とされた有力者の息子の亡骸なのだろう。吉野ケ里の土の上に立ち、あたりに漂う、死の記憶に僕は耐えられなかった。

 

‥‥僕の首筋に残るひげを剃り落そうとして、オヤジがぴたりと剃刀を首筋に当てる。

「全部、ひげは剃ってよかろか?」「ああ、剃ってくれい、髭を伸ばしても似合わん」

 

坂本さんが縄文を強く意識しだしたのは2001年9.11からだったそうだ。当時ニューヨクに活動の拠点を移し、9.11を間近に体験された。坂本さんは世界の落差に大きな矛盾を感じたのだろう。

「貨幣」にとりつかれた人は、他国の人自国の人が何人戦争で死のうがテロで死のうが、しばらくすると株を買い、ラスベガスで博打をし、野球を見、ステーキを頬張り、性を買うのだ。実際、アメリカで表現活動されていた坂本さんには大きな衝撃だったのだろう。

 

「縄文聖地巡礼」はそんな二人が聖地の巡礼をしながらいろいろな事を語りあう。その二人の語り合いを読みながら頭の中で翻訳するには結構時間がかかる。そんなに厚い本じゃないけど、哲学的な言葉が普段の会話の中にさりげなくちりばめられて、読んだ気になっても、いや待て…二人が語ったことはもっと違う意味でなかったかと思い、読み直す。

二人は青森の三内丸山遺跡から、長野の諏訪大社、井戸尻考古館、若狭、敦賀南紀(南方熊楠の史跡!) 山口、鹿児島の史跡を巡礼する。

 

 

坂本さんが原発反対運動を支持されたのも、現代人の暮らしぶりに強く矛盾を感じられたからだろう。平和な縄文は1万年も続いたのに、自然に存在するはずのない「核」を現代人は100年前に作り、その核にいったん大地が汚染されたら100万年も人々は住めない大地になることを知っていて、戦争の脅しの道具にしたり、その場限りの暮らしを享受している。(坂本さんの反核運動を批判する人は、そもそも批判する相手を間違っている…)

NHKの追悼番組で晩年の坂本さんは、街の声、音を録音して楽曲作りのベースにされていた。耳を澄ますと地上にはいろいろな音がする。人の声、風の音、雑踏、クラクション…メロディーではなく、音の響き…

 

‥‥髪を切るイスの奥、すだれの向こうに幼い子供たちの遊ぶ声がする。

「じいちゃん…」という声がする。

…「じいちゃんは仕事中」…と、じいちゃんは答えながら

僕の頭にシャンプーつけてごしごし洗う。髭は剃り落され頬がすっきりした。

 

…じいちゃんもおじさんも、君たちの未来が心配なのだ。

…いつも君たちのじいちゃんには、

おじさんが1万年前の縄文の話を聞かせてあげているからね。

 

自分の死期を意識すると音楽家は「音」がなつかしいのだろうか。昨今のキャンプブームもみんな自然の音を探して、眠りにつきたいからではないかと思ったりする。

 

本の最初に但し書きがある。(中沢氏)

「古代への情緒的な幻想を求める旅をしているのではありません。

これは、いま私たちが閉じ込められている世界、危機に瀕している世界の先に出て行くための、未来への旅なのです。」

 

今の暮らしのシステムが、老朽化した原発を小手先の修理で無理に稼働させているのと同じシステムなのだろうし、いつ暴発するかもしれない。

 

坂本さん曰く…

「この列島に住んでいた先人たちのこと、当時の自然環境、彼らの暮らしの事をもっと知りたい。それを知らないと、今の自分が見えてこない気がする。」

 

今年2月、坂本さんが巡礼した長野県の井戸尻考古館、諏訪大社を僕も巡礼出来た事は本当に良かった。ガラス越ではあるけど1万年前の土偶を目の前、リアルに見て、古代の精気を感じると未来に向けて自分が出来る事が、少しだけ分ってきた気がする。

 

「たかが電気じゃないか」
「たかが核、原子力」で人類が100万年以上苦しむくらいなら、もっと知恵を出せとオヤジ同士の真剣な床屋談義終了す。

 

…「また来るたい」いつものように店を出て、坂本さんに少しは似たかと頭をなでながら、帰路につく。