面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

映画「怪物」(是枝裕和 監督)を観た。

 

(ネタバレなしの、ただの妄想、極私的感想なり)

田舎のショッピングセンターに併設された、日曜の昼下がりのシネコン
いくら話題の映画でも観客はまばら。シニア割りで安く観れた。

映画のパンフを読むに、脚本家の坂元裕二氏が「怪物」のシナリオを書くきっかけは、ある時車を運転していて横断歩道の前にトラックが停車してなかなか進まないので、しびれを切らしてクラクションを鳴らしたら、そのトラックの影から車いすの人が道を横切った光景(シーン)を見た事だそうだ。誰しもそういう勘違いはあるのだろうけど、その出来事、トラックの向こうの可視化できない光景に自分の心は動き、坂元氏は子供の頃の思い出をたぐって今回の脚本を書かれた。

大きく言えば、今の社会は「分断」と「不寛容」の織り成す世界。
そんな世界を少しでも良くするには「調和」と「寛容」がカギなのだろうけど。でもね、子供の頃から分断と不寛容の世界に育ったら、調和の意味も、寛容のありがたさも分からない。ヤフーのニュースのコメント欄もツイッターも、分断と不寛容で満ち溢れているんだなぁ。

街を「可視化できる」怪物が堂々と人を踏んづけてのし歩く。テレビを見れば不寛容な怪物がコメントする、デマを拡散し笑いを誘う。そんな怪物を支え手を叩き喜ぶのは、その怪物の影に潜む、可視化できない小さな怪物の群れ。怪物の育ての親たる我らは、みんなクラクションを鳴らしほめたたえる。のろまな車いすの人物に舌打ちをする。

映画の主人公は小学生5年生の二人。麦野湊と星川依理。二人は怪物から逃げ隠れ家を見つけ、最後は二人だけの世界を探すために旅に出る。僕が子供の頃にこの映画を見たらどんな感想を持つだろうか。何か悲しい気になる気がする。学校なんて行きたくないと思う、と思う。

映画では教室で無邪気に二人の「いじめに参加する」子供たちが居る。何の悪気もない。くったくもなく、いじめに参加している無名の子供たち…それを見て見ぬふりして、自己保身に徹するたくさんの無名の大人たちが居る。何の悪気もない。そのはざまで苦悩する、担任の保利道敏。

「怪物」はみんなが「考える事を嫌がる事を考えさせようとする」映画。
「見たくない事を見せようとする」映画なんだろう。(さて興行的にはどうなのだろう、少し心配)

この世界から逃げ出そうとする二人には、二人にしか分からない、共通の感覚、言語が産まれた気がする。同性愛とはこんな感覚なのだろうか。解き放たれた自由。この感覚、言葉を大人の言葉 (使い古された思考)で解釈、解説しようとしたら、なんともつまらない。パンフの内田樹氏の解説がつまらない。

もちろん僕の脳内も小さな怪物、目に見えない怪物で満ち溢れている。見終わった後に、長―い、尾を引く映画で、僕も二人の後を追いかけたいのだ。森から抜け出て、草の上をはだしで駆け出し、まだ見ぬ光の世界に向かって。