面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

誇大妄想的日常

古代妄想…の話は後にして、縄文土偶の古書は正月読もうと思う。

いろいろ、パソコンを整理していると、5年も前に設置してもらっていた、アナリテイクスが出て来た…出て来たと言っても引き出しの中からではない、忘れていたブックマークからぼんわり浮かんできたのだ。アナリテイクスはネットで通販している人なら、大概知っている無料の調査ツールで、自分の通販サイトが一日でどれだけの人がどこから見に来たのかなどを詳しく知ることの出来るツールなのだ。モールに出店していると今はモールのシステムの中で更に詳しく来客を調べる事ができるので特に不要だが、独立サイトの場合はアナリテイクスで調べざるを得ない。こういうブログでも昔はアナリテイクスを見て一喜一憂していたのだが…今は不要に近い…と言うよりも、現実を知り愕然とする。

あるラジオ番組で友達が何人いる?という会話があり、その年配の有名な作家が数人、いや1人かもと、答え、周りの出演者も同じような答えをしていた。もうそろそろ店じまいの年齢で、これまでの記憶を整理していくと、今更友人を作るのも面倒だし、友人は自然にできるもので、力業で出来る友人などいないのだ。

仕事をしていて、一時期、異業種交流会なるものが大流行したが、酒を飲みながら相手の腹を探り名刺交換する異業種交流会のあとの悪酔いがたまらない。先方から朝一番に出会いの感謝のメールをよみ、返信するのは苦痛いがいの何物でもなかった。

つまり、僕にもほとんど友人などいないのだ。必要もないけど。

この面白半分猫半分という、わがままブログも1週間に数名来客があるくらい、つまり誰も読んでいない、ブログなのだ。何年たっても。ではなぜ書くか。99%自己満足。死ぬ前に…ボケる前に、嗚呼、こんな事を俺は考え書いていたのかと、自己満足のためにだけ書く。ただ、書く以上は、自分なりに整理して書かないと、書く意味がないから、自分なりに整理して書いている。自分は人口知能ではないし誰かの意見を写しても仕方ない。

公共の電波、放送などで情報を発信している人は個人のブログのアクセスとは桁が違うのだろうが、そのアクセス数の中からどれだけその内容を理解できた人がいるのか?

理解できない人の数が圧倒的に多いから、記事も炎上するのだろう。そのいちゃもん付けた人の「いちゃもん」も即、消滅する。「いちゃもん」人も大多数が共感、読んでくれていると勘違いしているがそれは哀れな幻想なのだ。

ただ人間の脳の中には誰がひっかいたかわからないキズが残り、そのキズに悩まされてしまう事が多々ある。自分の言いたいことは公の電波ではなく、せめてアナログの本か、個人のブログの範囲で言いたいことを言うのがまだマシと言えよう。

たまたま、作家?評論家?の内田樹氏の新刊「日本習合論」を読む。面白そうだったから読む、ちょうど「神仏習合」について考え悩む時に目の前に内田氏の「日本習合論」が並んでいたので手に取った。内容は僕と同じレベル。内田氏も忙しいのか、おそらくべつのライターかリサーチする人、キュレーションする人の原稿をまとめたのか、ええとこどり、資料も新書的な内容のものなのか。原稿にスキマがあるから、突っ込みところ満載の内容となった。しかし内田氏のやわらかいものいいで優しく、ファン、読者は包まれる。

悪い例で言えば、タレント?の武田鉄矢氏がラジオで、ネタにするような内容で、面白可笑しく関心を引いておいて、勘違いの知識を拡散しているような内容なのだな。

内田先生が心配しなくても、日本(人)は充分、和洋折衷、神仏習合…全部ミックスして都合よく生きています。極論言えば、日本人は明治維新前に戻らない限りは、洗脳は解けないという事でよろしいでしょうか?と思う。靖国神社(天皇、特攻隊洗脳、愛国洗脳神社)が建立されたのは明治2年…そこから日本人の心はマインドコントロールされたまま。

誇大妄想的な日常から抜け出すには、結局、山奥で一人瞑想にふけりながら生きるのが唯一の脱出方なのだと思う。友人なんて敢えて、いらないのだ。