面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

小説家になりたかった Fさんが居た。

 

nhkのラジオ、高橋源一郎さんの番組「飛ぶ教室」を時々聞く。その回は、作家の井上ひさしさんの思い出話で、井上さんが文学賞の選考委員である人の作品を選んだ夜、その本人が深夜、自宅までやってきて「これで小説家になれました。店をたたんで作品作りに専念します」と頭を下げ語ったそうだ。井上さんはそこまでしなくてもいいではないかと引き止めたが、結果、その人は店をしまい作品を書き続けた。しかし、その後書かれた作品は賞に選ばれることはなかったそうだ。つまり小説家にはなれなかった。

その話を聞いて、もう20年近く前に出会った Fさんの事を思い出す。Fさんはその当時、地方の文学賞に選ばれ、そのことをきっかけに作家活動を始めた。かく言う僕も違う文学賞にエントリーし2年続けて次席に選ばれた。その時、何かのきっかけでFさんと知り合い、僕は彼の阿蘇にある住まいを訪れた。同類の勘という奴か、二人とも同じ年、本の嗜好も似通っていた。多少、僕はその筋の本を読んでいたつもりが、彼の書庫には、僕の本棚の中身より、はるかに濃い内容の本がびっしり並べられていた。熊本に帰ってきて「桐山襲(かさね)」の作品について語りあう事が出来たのはFさんが最初で最後だった。

いろいろ話をしていくうちに、彼が太宰治に心酔していることが分った。彼は長崎の離島出身で東京の一流私大を出て、旅行のライターの仕事に就く。そして独立し有名な旅の雑誌に記事を書き、福岡で会社を設立し、海外も長らく放浪、ライターとして成功、東京事務所まで設けた。ただ有る時、彼は小説家になろうと決心、会社も解散、すべてを捨てて一人で阿蘇にやってきて、作品作りに専念した。そうして書いた作品が、その文学賞で入選した作品なのだ。彼も僕の作品を読み、すでに僕の力量も分ったのだろう。僕は彼の熱意、知識にお手上げだった。
僕には彼のようにすべてを捨てて作品を書く覚悟も、力量もなかったので相変わらず、熊本の零細企業でみじめな営業で飯を食っていた。大会社の孫請けの会社で社内にはアル中の社長と絵にかいたような窓際族の爺さんたちが、親会社ににらまれないようにびくつきながらも、こそこそネズミのような、薄汚れた溝をはいまわるような仕事をしていた。僕の次席に選ばれた作品もそんな空気の中から生まれたような作品だった。Fさんは僕の2作目を呼んで、「途中で寝てしまいましたよ」と言った。確かにその作品は「眠りの中から浮き上がった玉ねぎの皮を一枚一枚むくような物語」だったのだが僕はその言葉に、彼の意地の悪さを感じ、彼を嫌いになった。彼には悪気はなかったのだろうが、その一言を僕は許さなかった。そして僕には彼を見返す3作目を書く余裕も、力も残っていなかった。

それから、Fさんはある漫画家とコラボして童話を書いたり、地元で文学誌を主宰、発行したりしていたが、その文学誌をめくると何ともつまらない、爺様のたちの思い出文集のような代物だった。また、当時売れている雑誌のコンセプトをまるごとコピーした本を出版した。彼の名前を検索すると当時の彼の写真が数枚出て来る。彼は食っていくために相当無理をしたのだろう。彼には、一番似合わない仕事をしたのではないかと思う。

彼は小説家になりたかったのだ。井上ひさし高橋源一郎氏の言うように、好きな事を続けることが出来るのは幸せだが、そんな幸せに巡り合う人は一握りなのだろう。もし彼が同じラジオを聞いていたのなら、僕の事を思い出したろうか。いゃ、彼の思い出の中には僕の事などかすりもしない。

お互い、めくることのできるページ数そのものが少なくなってきた。小説家になりたかったFさんの事を、僕は少し書きたくなった。