面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

ヘモグロビンが越えた

昨日の内科の定期健診の血液検査でヘモグロビンA1cが危険数値を越えてしまった。永年踏ん張っていたけど、7.5が出た。

コロナストレスで、甘いものを我慢していたが禁をおかし自己責任。8になると完全に糖尿だ。永年、お世話になった糖尿内科の先生はそれでもにこやかに頑張りましょうと励ましてくれる。投薬はなし。これが他の内科なら、はい薬で終わるところだが、T先生は簡単に投薬しない。

「薬があなたの病気を治すのではありません。あなたがあなたの病気を治すのです。」最初の診療時に僕に忠告してくれた言葉だ。専門医で永年診療を続けてきた経験があるのだろう。「僕はまだ、頑張ればやれる」とアドバイスしてくれたのだ。

 

タレントのロンドンブーツ氏が自分はHSPと公表した。神経質な性格で、他人と打ち解けにくい…この症状は自分の母にも強烈に当てはまる。そんな母のせいにするわけでもないが、母も僕も妹も、みんなHSPそのもの。

HSPではない父は、この3人に相当苦労し亡くなった。家内は今も苦しんでいる。

「ファッションHSP」というものもあり、それは、それらしき病気になりすまし、哀れさをよそおうファッションなのだそうだ。そうとなれば「ファツション鬱」というものもあるのだろう。僕はそれなりの薬を飲んでいるが、白状すれば「ファツション鬱」なのだと思う。「ファツション鬱」の根源は「ファッションHSP」なのだ。

 

「ファッションHSP」を治療しする薬はないのだ。なぜなら、人間社会のほとんどが「ファッションHSP」に感染しているから、それが見えないのだな。

 

自分で自分の病気を治す。

これが本当は一番簡単な治療法のはずなのにね。

 

たんこぶ出現

げっ、先週の忘年会の夜に出た症状というのは右の額、開頭手術をした跡に、ちょうど水餃子くらいの大きさのたんこぶが出来たのだ。折角楽しい忘年会だったのに興奮しすぎたのだが、夜、いつものくせで額を触るとぷくんと皮膚が飛び出している。いったん飛び出したらそう簡単には引っ込まないのだ。2年間で3回目。おそらく髄液が傷口から脳の圧力で染み出したんこぶになっているのだろうけど。気持ちがいいわけがない!パキシルを飲むが眠れるわけがない!髄液は脳の中で作られる液体で、頭蓋骨の中を脳は髄液に浮かんでいるらしい。たんこぶの髄液を抜くと脳に雑菌が入る危険性もあり、そのまま引っ込むを安静にして待つのが一番いいらしい。髄液漏れは、水頭症…もういい、だんだん眠くなってきた。脳の手術、障害を持った人はめまい、頭痛に悩まされるのは日常だが、やはり深夜の水餃子はいやだった。短気な自分だが、今後はできるだけ興奮しないようにしようとは思う。

が…次の土曜日、あるコンサルから紹介された経理専門のコンサルのおばさん…僕と同じ年くらい…に経理の件で相談する約束だったので、早く自宅で安静とはいかなかった。その経理コンサルが、とても人格を信用できない「あおり」コンサルだったので、よけい気分が悪くなった。全く人の話を聞かない、持論を押し付ける…事前に送信した相談内容はもちろん読んでいない…どこかで読んだ本の受け売りの受け売り…要するに困った2時間半だった。更に話の中で障がい者に対しての差別発言の連発!障がい者を雇用した方が「安くつく」だの、「補助金ももらえる」など…( 無意識が一番たちが悪いぞ ) 思い出す度、腹が立つ。僕が更に、たんこぶが悪化したら障がい者になるわけで、そんな損得勘定で決めつけられたら、辛いではないか。コロナだからと言って、いきなり人が変わったように仕事が変革できるわけがない。自慢じゃないが、ビジネス本を何十冊読んだかわからないし、何十冊捨てたか分からない。東京のコンサルに1年で100万投資し、売り上げ1000円しか上がらす大失敗したこともある。

今から思うと高い授業料、よい勉強だった。その100万を回収するのに、10年近くかかったのだけど。おかげで額に「たんこぶの勲章」が付きましたが。口先だけのあおり、コンサルおばさん、おじさん…お互い冷静になりましょう。

何万回素振りしても、イチロウにはなれません。自分のフォームでコツコツ行くしかないのです。  

忘年会

金曜日、5年ぶりくらいの忘年会だった。

会社近くの居酒屋。入ると、超満員!コロナも何のそのお店一杯、座るところもなくわいわいがやがや、盛り上がる。みんな声がでかい。おのずと自分の声も大きくなる。僕は頭のケガのおかげで酒1滴も飲めない。アルコールが頭に回ると激しい頭痛で夜眠れなくなるのだ。

 

忘年会のメンバーというのが10年前に僕がリストラしたメンバー。

いきなり、大きな取引先が予算大幅カット!それを予算をあてに会社は成り立っていたので、全く手の打ちようがなく、自分の給与も半分にしても赤字、会社を存続させるためには人件費を減らすしかない。眠れない夜が続く。社員一人一人の生活もある。悩みに悩み、結果、一人だけ残して大リストラ!それから仕事を更に詰めに詰め、ようやく会社を債務超過から復活した矢先にクモ膜下を起こした。それでもなんとか会社は今もやってこれている。だから、コロナ不況で苦しまれている零細企業の人の気持ちが少し、だけ・・僕にはわかる気がする。手のうちようのない悩みも。

居酒屋にはその時のメンバーが久しぶりに集まってくれたのだ。みんな転職して大出世!幸いコロナに影響を受ける業種ではなく、業績も安定し元気いっぱいだった。

更に残った一人ともう一個の会社を始めて今年10年目…で、ようやく軌道に乗ったかと思うと、コロナ・・・この会社も幸運にも何とか維持できている。

 

僕ももう60なんだし、これ以上、しんどいのは勘弁してほしいと思うのだが…生きていれば、いろいろある・・・僕の葬儀にはみんな来なくていいぜ。君たちの温かい気持ちは充分分かった。

 

テレビコマーシャルで、ユニクロのコマーシャルに中島みゆき「ファイト」が流れていた。生命保険のコマーシャルかと思いきゃ。こんなミスマッチなコマーシャルはない。

ブラック企業(※裁判でも負けたよな)が、「ファイト」なんて担当プランナーも劣化してるぜ。と、思うに次に見ることはなかった。そもそも、最近テレビ見ないからか。

 

楽しい忘年会の夜、熊本市内のホテルに泊まる。深夜、久しぶりにある症状が出た。興奮したからだろう。焦るが仕方ない。暗がりの部屋の中でラジオを聞く、安定剤を2錠飲む。ようやく明け方、眠りが襲い症状が治まる。

もうちっと、やりたいことがあるんだ。

「ファイト」

 

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蝶の道

 嗚呼、どうしてもめまいが収まらない。ひどいめまいではないが、軽いのが続くのだ。

一日中、そんな軽いめまいの薄い膜の中に意識がある。もう死ぬまで解放はされないのかもしれないが。先日、脳外科で処方されためまい止めの薬「ケタス」は一時的に効いたが、ケタスの副作用はめまいであり、違うめまいの症状が出たので、自己判断でやめる。病院でよく言われるのが、脳の傷が原因で治しようのない症状について「命があっただけでも良かったではないか」という、慰めというか、励ましにもならない苦笑い気味の言葉だが、確かに、苦笑しながら余命を生きる術しかないのだろう。病気も個性ととらえよう。

更に軽い鬱的な気分があり、毎晩パキシルのお世話になる。気分がズーンと沈みゆく明けきらない朝、ラジオのつぶやきを聞く。

寛太が「生きてるか?おっさん」とクンクン、クスクス鼻息、鼻水を吐きながら布団を覗きに来て横になる。寒さを静かに感じる秋の朝。寛太の鼻は低く、もともと蓄膿症的な症状がある。

 

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紅葉の写真を撮りに行くのは来週の日曜として、余る時間をまた、隣町、網田地区の田畑をぶらつく。11月でもまだまだ蝶は居るものだ。草むらに舞う、小さな白い三角形のはかない蝶たち。その蝶に誘われたどり着いたのが、小さな窯元。工房青弥(せいや)さん。離れの作業場兼、販売所にはアクセサリーや陶器が展示販売されてある。入り口には手入れが行きとどいた庭があり、小さな花々が咲いている。その花々のかわいらしいことよ。庭をみているだけでもセンスを感じることができる。声をかけると、庭の奥で声がして、掃除の手をとめ主の梅田さんが出て来てくれた。気さくにいろいろ話を聞かせてくれた。ふと店内に、旅する蝶「アサギマダラ」の写真のパネルがあることに気が付く。「アサギマダラ」は今夏、五家荘の峠、標高1500メートル、キレンゲショウマの群生地の中で初めて見かけた蝶だった。中型の美しい蝶で、その名の通り、薄い浅葱色の羽にはスジの文様があり、真っ黒のお腹には白いまだらの点がある。後で調べるに日本、台湾と旅する蝶として有名なのだ。そんな蝶が、標高5メートル?くらいの場所に降りてくるなんて。その窯元の庭に咲く「フジバカマ」の花の蜜を吸いに来るそうなのだ。網田の窯元の花は彼らの日本から台湾までの海沿いの休憩地なのか。草花や生き物を愛し愛で土をこね、何かを作り出す、作り出せるというのは素敵なことだ。

陶芸は大作であろうが小品であろうが、そんな思いが伝わるか、どうかなのだろう。誰しも「フジバカマ」を植えたら「アサギマダラ」が訪問してくれると思うのは浅はか。庭全体の環境が蝶に評価してもらわないと、何時までたっても蝶は来ない。

手のひらの上か、机の上で小さく花や緑を活かす作品があれば僕のめまいもひととき、収まるのか。

蝶のおかげで、フラフラ頭の僕がフラフラしているうちに、素敵な人、庭に会うことが出来て良かった。

 

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1000日目

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10月は僕にとって魔の月なのだ。

 

ちょうど3年前の10月、熊本の秘境、五家荘で道に迷い、谷に落ち、岩陰で一夜を過ごし、更に谷に落ち山をさまよい、川を渡り林道に這い上がり、一命をとりとめた。あと数分で捜索隊が出動するところだった。

 

その翌年の2018年1月27日に自宅でクモ膜下を発症し、開頭手術で脳の破れた血管に3か所クリッピング手術を受けた。2週間、生死の境界をさまよい(なんでもさまよう…)幸い後遺症もなく奇跡的に社会に復帰した。入院リハビリ合わせて2か月、仕事は相変わらず無茶を続けた。先生からはもう死ぬことはないと言われた。当時の頭の中は一日中、針を落とされ続けているような尖った頭痛に見舞われていたが、それでも仕方なしと車を自宅から市内の事務所まで往復2時間走らせていた。帰宅時、秋の夕暮れ、対向車のライトがまぶしくて仕方なかった。右の口の横がぴくぴく引きつりだしたが、それが何の兆候か分からなかったのだ。そして10月末に、打ち合わせ先の事務所で全身硬直、顔の左部分が誰かのいたずらのような大きな力でひねられ、顔がよがみ気を失い救急車で運ばれた。脳の傷と過労が原因の症候性てんかんの大発作だった。

 

その発作から丸2年。車の運転が禁止され、通勤にJR三角線豊肥線を乗り継ぎ、往復4時間近い通勤となった。今月でようやく運転解禁となるが、かすかなめまいと頭痛は収まらない。先日、あまりにもめまいがするので脳神経外科に行き薬を処方された。老いた医師は「命があるだけ幸運たい」と笑顔で僕を励ましてくれた。

 

処方された「めまいの薬」の副作用は「めまい」(苦笑)

めまいは軽く収まったが今度は頭の中がキンキンと傷む。昼間、事務所で体や気持ちがどんと落ち込み、昼になるとやる気はなくなり生きる気力もなくなり、全身が椅子に溶けそうになる。死にたいとは思わないが、生きる気がしないのだ。

 

いまさら思うに、山の遭難にしても、クモ膜下にしても…なにしろ頭の中が血だらけでも救急車を呼ばず、翌朝自分で運転して熊本市内の脳外科に行ったのだ…もちろん、済生会へ即入院、手術になったが…仕事にしても…半年もたたないうちに、博多のホテルのイベントに参加した…更に、山の写真集を出しアマゾンで販売開始…はたから見ればメチャクチャなのだ。死にたくて体を酷使していたにかもしれないが、歯止めがかからなかった。

 

そんな無理の代償がまた疲れとなり、最近の頭痛、めまいの原因かもしれない。クモ膜下後、いろんなサイトで術後の寿命を調べたりした。もちろんクモ膜下は外科的な脳の病気で個人差が激しく、正確に寿命が分かるわけではない、ガンなど進行具合でステージが分かるのだろうが、僕の場合は、強運にも手術は成功したのだ。病気などしなくても男の場合、60歳まで生きれただけでも良かったと思うべきなのだろうが。

 

「クモ膜下友の会」…そんな会があるとすればだ…生き残った人間が約半分、その半分が重度の後遺症、麻痺で、「生きる苦難の最中の人々」は僕のようにのんきにブログなど書いている暇などない。では最後に残った約3分の1の人々はどうしているか…サイトで検索しても中々出てこない。

 

たまたまスマホで計算したが、10月23日が、脳の手術から1000日目だった。死線をさまよった後、僕の過去には1000日の時間だけ確実に刻まれていた。これからは体力が落ちるにつれ、違う形での後遺症が出てくる可能性もある。真綿で首を絞められる長い苦しみが続くかも知れない。ブログの駄文書きにしても、ピンボケ写真にしても、自分の足元で感じた思いをつづるしかないのだけど。あと何年生きるか?分からないことを悩んでも仕方ない。1000日プラス、アルファと考えたら、少し気が楽になった。

 

めまい止めの薬を飲むのを止めたら金属音のようなキンキンした痛みが止まる…

気は楽になったが、めまいは止まぬ…ここ1週間、夜の9時には眠りにつく。深夜に目が覚め、また気分が落ち込む。足元に居る猫のポン太が心配そうにあくびをする。そんなあくびに、ひととき救われる夜なのだ。

猫の変なところ。

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我が家総勢6匹の家猫のブームは寝床争い。特に廊下の古いミシンのしまってある箱の落ち込みの争奪戦が激しい。箱には落ち込みがありその落ち込みに体を沈めて寝るのが気持ちいいらしいのだ。

その争奪戦の勝者は一番性格温厚な「コダマ」。

彼女は絶対にその座を誰にも渡さない。戦いに負けた者どもはおのおのの場所に落ち着く、ベッドの上、中…クツション…ミシンの箱よりもはるかに柔らかで気持ちいい場所なのだが、みんなはどうしてもそのミシンの箱がいいのだ。当然その箱の中には年代物のミシンが眠り、何の役にも立たず、箱の底でじっとしているのだけど。

 

三度目の正直はなかった。

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もともとしつこい性格なのだ。サツマニシキに会いに3回目、宇土市のある公園に出かけた。前回は初回に発見したほぼ同じ場所にニシキは居たのだけど、さすがに3度目の再会はなかった。会いたいのなら来年の今頃、同じ場所で。それでも会えたとしたら奇跡なのだろう。日本から台湾まで旅する蝶、アサギマダラならともかくサツマニシキは蛾なのだ。かれはあまり旅は得意ではないらしい。

天気も良かったので帰りに宇城市の陶芸展の幟が目につき、網田地区の窯元を旅した。まずは網田焼資料館。細川藩御用達の網田焼だが、明治維新後、お城からの仕事は無くなり、窯も廃炉になり当時の窯元はない。今の網田地区の窯元はそういう歴史はない自分史をもつ作家の窯元なのだ。網田焼資料館で時間がかかり、個別に回ることはできなかった。網田焼資料館も全体で雰囲気が整備されれば、田舎の風景を支える歴史の重りになるだろうに。なんか惜しい。

地域で有名な蒼土窯の窯元に行くに、なんと休みだった。蒼土窯には約30年前に僕は訪問したことがあるのだ。主の方に会えたとしたら、サツマニシキの再会どころではない。窯の作風というかウリの一つは、蒼い土に野草そのものの姿を焼き付け、デザインし、淡い釉薬で色付けするものだ。山で拾った葉の一枚もマグカップにそのまま貼り付けたら完成だが、窯の本命は巨大な自然の命を原寸大で焼き付け表現するのもので、建物の大きな壁面を野草の森のレイアウトで飾られる作品で有名なのだ。「山で拾った葉の一枚もマグカップにそのまま貼り付けたら完成」とかいう説明も適当すぎて窯元には失礼な言い方かもしれない。その一枚の葉で自然を感じるか、お土産品に感じるか感じないかは個人の自由だからね。

僕が撮影する五家荘の写真も、一枚のハガキに印刷したら自然を感じるか、お土産品の一枚になるか、感じる人の自由だけど。

基本はそういう手法、モチーフにとらわれずに粘土をこねくり、何かを作り出す作風の方が僕は好きですが。

まぁ、狭い網田地区に数件窯元があるだけでも、休みのぶらぶら歩きは楽しいものになるからいい。

細川藩御用達の白い陶磁はどこかで見かける形式的なものでなんら刺激も何も感じないと思っていたが、資料館の展示の陶器を見ると、その透けて見るような白い陶器の方が、眺めていると何かジーンと来るのだ。何でもない物の作品もよく見ると美しい。

陰影礼賛…資料館の向かいの当時を管理していた中園邸の屋敷は灯りがなく薄暗い。電気も何もない当時の家の中はそもそも薄暗くて当たり前。その暗がりの中で、薄く白い陶磁を手のひらで愛でる、感覚こそ味わってみたいものだ。

中園邸の立派な庭の景色、縁側に吹く風。陶器を味わう条件とは、何も明々とした灯りの下で眺めるものだけではないと、改めて思うのだ。