面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

キツネのカミソリ

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誰が名づけたのか、なんとも物騒な名前の花ではないか。しかも怪しく美しい。阿蘇の水源地を散歩していたら、散策道の横の湿地帯に群生して僕の様子をそっとうかがっていた。僕の知らないうちに、くるっと顔を上げたり、顔を向けたりして、目を光らせている。見るからに毒草で、間違って口に入れたら大変。キツネのカミソリには、仲間でオオキツネノカミソリも居て、えーい、こんな予定調和の自然なんて、君の鋭い刃先でどんどん切り刻んでくれとも思う。

ひさしぶりに阿蘇に行くと、なんともつまらないのだな。この草原ももともとは人の管理でこうなったわけで放置していたら、森林になっていたそうだ。

僕はぜひあなたたちを五家荘にスカウトしたい。あなたたちの住む場所はこんな箱庭の自然ではなく、崩落寸前、ワイルドの深い谷、五家荘がぴったりなんだよ。

五家荘の迷宮には何人も道にまょってえらい目に遭っているんだ。かく言うおじさんもその一人、死にかけたんだ、マジ。

救われたんだ、おじさんの心は君たちの怪しさ、ひそやかさ、けなげさに。

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 暑さとコロナで、頭の中が他人への批判と悪口に満たされる夏。以前、仕事で阿蘇にもよく通っていた。当時は南阿蘇もトンネルができる前で、俵山峠を越えて久木野村に降りると、道路は舗装されておらず、ジヤリ道を通りお客さんのログハウスに通っていたのだ。その施設の広告や印刷の仕事を受けていた。オヤジは大地主で、遠くの山を指先し、あの杉の木からこの杉の木までが「我が家の土地たい」と体を右から左にくねらせ僕に話しては満足そうだった。

もちろんそんな杉の木、見えるわけはないので「ホー」といつも僕は驚いたふりをしていたのだけど。(ばれていたろうが。)

行く度に、地主のAさんは自分の杉山から木を伐りだし、皮をめくり親戚の大工さんと一緒にログハウスを造っていた。気の向くまま、大中小、およそ10棟、さまざまな形のログが林の中に建ち、都会からの宿泊客を迎えていた。バブルの弾けた後でも値段が安く結構人気で、気が付くと広大な敷地に芝生が張られオートキャンプ場が出来、気が付くと岩風呂のような流水プールが出来、気が付くと温泉を自作し、最後はカラオケハウスを造った。

ある時、都会からの宿泊客からクレームのハガキが来た。「こんな景色は自分があこがれた阿蘇の景色ではなくがっかりした」との内容。Aさんは怒り僕に「せっかくカラオケまで作ってあげたのにわがままな客たいと!」吐き捨てるように言った。

仕事がてら、いつも二人で阿蘇の自然を活かしていかに観光客を呼び、地域を発展させるか何時間も語り合っていた。もともと僕は、阿蘇にカラオケハウスは無駄だと思っていたのだが何も言えなかった。(つまり、何の役にも立たない、そんたく営業野郎だったのだ)

ある時村に、念願のトンネルが出来、バイパスも出来、昔の砂利道もなくなった。観光客はどっと押し寄せ、道沿いにはいかにもおしゃれな喫茶店、雑貨店が出来、観光客で賑わい始めた。(店もたくさんつぶれたけどね)。

トンネル建設の功労者を自負する村長殿は (生きながらにして) 道沿いに自分の銅像を建てご満悦。( ついでに息子を裏取引で地元のテレビ局に押し込んだ ) おかげで、僕は都会から寄せられたハガキのように、田舎の人は都会の他人が思うほど、純粋で純朴ではないと学んだのだ。その後村長殿は村長選で露骨に村人に現金をばらまき公職選挙法で逮捕された。で、銅像はどうした?

テレビで紹介された一心行の大桜は、昔はあぜ道を辿り迷い汗をかいて捜し歩く向こうに、春先の陽気でゆらめく陽炎の中、菜の花越しに見えた知る人ぞ知る、一本の大きな桜の大樹だったが、マスコミで話題になると、いつの間にか、夜間はライトアップされ、イベントで賑わいお琴の演奏もあり、観光バスが列をなし、おじさんたちが酔っ払い、焼き鳥片手にクチャクチャして記念写真を撮っている間に、自然の菜の花畑は無くなり、駐車場になりお土産屋が出来、最後は桜の周りは老人の為のグラウンドゴルフ場になり、飽きられただの老人公園のどこにでもある一本の桜の木になった。

 

この間、わずか20年。

 

人と自然。机上の空論的に言えばお互い一致して魅力を作り出すものなのだろうけど、いつもすれ違い、お互い勘違いして、変な形になっている。要するに会話がないのだろう。もやもやするものなのだ。

人はエラソーなことを言い、平気で自然に嘘をつく。

当時訪れた、産山村のある水源。自然林の暗い森の中を歩いて10分。道の奥にはひっそり苔むした水源地があった。お地蔵さんが池の真ん中に祀られ、底の踊る砂の中からは地下水が次から次へと湧き出ていた。誰も居ない森の中の水源。ここだけ違う時間が流れるのだ。

今回、自宅から2時間以上。ようやくたどり着いた久しぶりの森の小道はコンクリートでならされ、歩く楽しみは半減した。「歩きにくいとか、怪我した」とか馬鹿からの苦情があったのかもしれない。僕のわがままと、山の小道を安全に歩きたいからコンクリートを流せとのわがままは、どっちが正しいか。村人は観光客に良かれと思ってコンクリートを流し込んだのだ。みんなカミソリを踏んずけないように!きっとケガするよ!