面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

少し悲しい、吉野ケ里。


この前の日曜日、寒空の下、佐賀の吉野ケ里遺跡に行った。これまで、全然関心のなかった自分がいったん、縄文やら、巨石信仰、修験道やらをかじると、やはり吉野ケ里遺跡は外せないのだ。自宅から高速で約3時間。灰色の空、冷たい風が吹く敷地の中に遺跡はある。広大過ぎて、入口もいくつかある。正面ゲート前にたどり着くと駐車場ではトラック市が開催され賑わいを見せていた。焼きそばだの、たこ焼きだの、野菜だの、もちろん古代の遺跡とは無関係だけど。ここで食い物買ったらいかん。我慢してゲートをくぐる。

入り口横に、遺跡の全体像をつかむガイダンススペースがある。吉野ケ里遺跡の年表が記されてある。この場所には朝鮮半島から人々がやって来たのだ。文化の交流、生活様式の交流、弥生式土器、建物…そしてこの集落に棲む人々は異人の群れから襲撃、収奪され、血の流れる戦があり、たくさんの人が死んだ。死んだ人は大きな甕の棺桶に入れて祀られた。逆もあったのだろう。海を渡り半島で暮らす異人の集落に仕返しに行き、収奪し人を殺し、殺された。

 

悲しいことに、この村の周りには深い堀が掘られ、先のとがった杭がぐるりと村の周りを取り囲んでいた。敵の襲撃に備え、堀を越えようとする敵を櫓から見つけて、黒曜石を磨いた矢じりで胸を射るのだ。えんえんと続く、堀の暗がりと先のとがった杭。

 

 

縄文しか、かじったことのない僕にとっては寒々しい景色だった。村にも階級ができ下っ端の家、中流の家、村長の家とすでに、古代の世界にも上下があるのだった。

集落には職業の分担もあり、酒を造る家、糸を布に編む家、畑、森、おそらく家畜も居ただろう。展示された角のとれた優しい弥生土器は、美しく「無個性」だ。

 

北部の古代の森ゾーンを歩く。この森の下にも、死体が眠る甕が埋葬されているのか。

甕には死者と死者を守る銅剣、もしくは勾玉や首飾りが一緒に眠る。甕の大きさにも身分差があり、位が上になればなるほど大きく居心地が良い広さになる。時に首の取れた骸骨もあり、これは村の戦闘隊のリーダーか、村長の若い自慢の息子か。相手に殺された首のない死体を奪い甕に埋葬したのか。

埋められた甕の数は限りなく、皮肉にもまだ発掘が間に合わない。

 

 

悪い冗談かもしれないが「死後の世界体験」として希望者に銅剣を持たし2泊3日で甕の中での仮死状態の体験をさせる企画はどうかと思う。

子供時に見たドラマ「怪奇大作戦」の世界を思い出す。怪奇大作戦で売れない魔術師が悪事を働き、主人公に追われ、箱の中に入り鍵をかけ湖に沈むという話があった。魔術師は湖底に沈みゆく時、耳元に聞こえる、あぶくの音を、過去に受けた喝采の音に聞こえ幸せそうに微笑み、静かな湖底に消えて行くのだ。

 

吉野ケ里遺跡を怪奇大作戦と同化したらいかん…が、古代の音に耳をすますには甕に入るしかないではないか。何か聞こえてきやしないか。目を閉じ冥途の世界を瞑想せよ。

結果、吉野ケ里の古代の暮らしが戦国時代、さらには現代の争いの世界に繋がるのだ。少し悲しい吉野ケ里。僕は買ったばかりの靴に足を締め付けられながらも、誰も居ない、尖った杭に守られた世界を抜け出すことが出来た。埋められた甕に足をとられないように。