「口の立つやつが勝つってことでいいのか」(青土社・著者・頭木弘樹)を読む。
今、全国では小さな書店の開店ブームらしい。「ブーム」というのは一過性のもので、商売は大変、どんな店でも開店して3年以上は踏ん張らないとなぁと思う。「ブーム」というのはマスコミにとっては格好のエサで、どこかで聞いた話をどこかで聞いたような記事にすればラクチン。「頑張れ、若者!チャレンジ精神!金はださないが口はだす」これでネット、テレビのニュースにも露出することが出来てお役御免。3年後の事なんて知ったことではない。
熊本・天草市にある「本屋と活版印刷所」は2019年の開店から5年経過、きっちり根付いている。僕の自宅から海を眺めながら車で約1時間。熊本市内に行くのと同じ時間なのだ。(本屋に行くのに1時間かかるって…田舎では仕方ないのだ)
店主は小さな出版社「ミシマ社」の大ファンで、熊本県内での「ミシマ社」の本の品ぞろえは一番だ。そんな本屋で青土社の本を買うのも少し不義理なのだけど(苦笑)。小さな本屋の良いところは、買い手の志向に合わせていろいろな本を紹介してくれるところ。悩めるおじさんの心を癒す処方箋的な本を勧めてくれるのだ。店主が勧めてくれたのは「歴史の屑拾い」(講談社・著者・藤原辰史)…全然ミシマ社の本ではないがけど…しかもお店では扱いがない本で、自分が読んで感動した本だからと勧めてくれた。なんて人がいいのか、親切なのか。結果、買ったのが「口の立つやつが勝つってことでいいのか」(青土社・著者・頭木弘樹)と、哲学者・池田晶子を紹介した本だった。
「口の立つやつが勝つってことでいいのか」の著者、頭木弘樹氏はNHKの深夜ラジオ、絶望名言と言う番組で知った。ついこの前、大竹まことのラジオ番組にもゲストで出ていた。本の内容はタイトルのまま。「口の立つやつが勝つってことでいいのか?」と言う問いに「口の立つやつが勝つってことではよくない」という頭木氏の考えがまとめてある。
テレビ、ネットでは本当に「口の立つやつが」のさばっている。政治屋崩れ、評論家崩れ、芸能人崩れ、お笑い崩れ、芸人崩れ、ヘイト認定者崩れ、商業保守屋崩れ、経済評論家崩れ…こんだけ、口のとんがっている俗物が生息できるのも驚きで、スマホのふたを開けると「崩れ」どもがなだれ崩れてくる。コスパ重視、タイパ重視の彼らは相手の話を聞かずに自分の言いたいことを言うだけ、電源を切ったらスマホの中にプツリ消えて行く。奴らは疲れを知らない。出来の悪いAIの複製のように、口の立つ口で、繰り返しデマを拡散し人々の心の中に暗い無数の穴をひたすら掘り続けている。大きな穴、小さな穴…足の踏み場もない。
頭木さんはそんなに話がうまくない。だから本を書くのだ。口は立たずに口ごもり、もたもた考えながら話す。その、もたもと、もつれ具合をお互いほぐし合いながら話すのが本当の会話であり、時にその中で、これまでになかった発見があるはずなのだ。
聞くに、小説などの文学賞の応募が近年増えて来たとの事。コロナがきっかけか、本を読む人が増え、時代の不安感から何かを表現したい人も増えてきたのだろう。毎日の悩ましさへの答えは、自分との対話、他者との対話から何か「解」が産まれてくるものだとみんな信じたいのだ。
天草の店主曰く、今の若い子(多分高校生)は、時代にとても敏感で将来に不安感があると言う。そりゃそうだろう、パレスティナでは今でもジェノサイドが続き、誰も止めようがない。大国が営利目的で弾薬を送り、罪のない人を殺しているのだ。クリスマスにどんな意味があるのか?
いゃいや、今の老人(つまり僕の事)も、若い子に負けず、時代に不安感があるのです。すでにカウントダウンが始まっている予感。「口の立つ奴」が掘り続けた無数の穴のおかげで、以前は多少潤いのあった僕の感受性もカラカラに乾いてしまった。
先日亡くなった、谷川俊太郎の詩の良さが僕には全然分からない。分からない…と言うのは氏の詩作の作意の波長が、僕の感性に合わないという意味。ただ、谷川氏は天才詩人・金子光晴が大好きで生前は時に金子光晴のような服を着ていたらしい。
金子光晴の詩を読むと、乾いた自分の感性に、一気に水があふれだすような感覚にとらわれる。とめどなく、あふれ出す水の流れ。金子が旅した旅の景色はすでに消えたのだけど。
不安な心に潤いを与えてくれるのは、詩の世界なのかもしれないと、ふと思った。
今、全国では小さな書店の開店ブームらしい。「ブーム」というのは一過性のもので、商売は大変、どんな店でも開店して3年以上は踏ん張らないとなぁと思う。「ブーム」というのはマスコミにとっては格好のエサで、どこかで聞いた話をどこかで聞いたような記事にすればラクチン。「頑張れ、若者!チャレンジ精神!金はださないが口はだす」これでネット、テレビのニュースにも露出することが出来てお役御免。3年後の事なんて知ったことではない。
熊本・天草市にある「本屋と活版印刷所」は2019年の開店から5年経過、きっちり根付いている。僕の自宅から海を眺めながら車で約1時間。熊本市内に行くのと同じ時間なのだ。(本屋に行くのに1時間かかるって…田舎では仕方ないのだ)
店主は小さな出版社「ミシマ社」の大ファンで、熊本県内での「ミシマ社」の本の品ぞろえは一番だ。そんな本屋で青土社の本を買うのも少し不義理なのだけど(苦笑)。小さな本屋の良いところは、買い手の志向に合わせていろいろな本を紹介してくれるところ。悩めるおじさんの心を癒す処方箋的な本を勧めてくれるのだ。店主が勧めてくれたのは「歴史の屑拾い」(講談社・著者・藤原辰史)…全然ミシマ社の本ではないのだけど…しかもお店では扱いがない本で、自分が読んで感動した本だからと勧めてくれた。なんて人がいいのか、親切な人なのか。結果、買ったのが「口の立つやつが勝つってことでいいのか」(青土社・著者・頭木弘樹)と、哲学者・池田晶子を紹介した本だった。
「口の立つやつが勝つってことでいいのか」の著者、頭木弘樹氏はNHKの深夜ラジオ、絶望名言と言う番組で知った。ついこの前、大竹まことのラジオ番組にもゲストで出ていた。本の内容はタイトルのまま。「口の立つやつが勝つってことでいいのか?」と言う問いに「口の立つやつが勝つってことではよくない」という頭木氏の考えがまとめてある。
テレビ、ネットでは本当に「口の立つやつが」のさばっている。政治屋崩れ、評論家崩れ、芸能人崩れ、お笑い崩れ、芸人崩れ、ヘイト認定者崩れ、商業保守屋崩れ、経済評論家崩れ…こんだけ、口のとんがっている俗物が生息できるのも驚きで、スマホのふたを開けると「崩れ」どもがなだれ崩れてくる。コスパ重視、タイパ重視の彼らは相手の話を聞かずに自分の言いたいことを言うだけ、電源を切ったらスマホの中にプツリ消えて行く。奴らは疲れを知らない。出来の悪いAIの複製のように、口の立つ口で、繰り返しデマを拡散し人々の心の中に暗い無数の穴をひたすら掘り続けている。大きな穴、小さな穴…足の踏み場もない。
頭木さんはそんなに話がうまくない。だから本を書くのだ。口は立たずに口ごもり、もたもた考えながら話す。その、もたもと、もつれ具合をお互いほぐし合いながら話すのが本当の会話であり、時にその中で、これまでになかった発見があるはずなのだ。
聞くに、小説などの文学賞の応募が近年増えて来たとの事。コロナがきっかけか、本を読む人が増え、時代の不安感から何かを表現したい人も増えてきたのだろう。毎日の悩ましさへの答えは、自分との対話、他者との対話から何か「解」が産まれてくるものだとみんな信じたいのだ。
天草の店主曰く、今の若い子(多分高校生)は、時代にとても敏感で将来に不安感があると言う。そりゃそうだろう、パレスティナでは今でもジェノサイドが続き、誰も止めようがない。大国が営利目的で弾薬を送り、罪のない人を殺しているのだ。クリスマスにどんな意味があるのか?
いゃいや、今の老人(つまり僕の事)も、若い子に負けず、時代に不安感があるのです。すでにカウントダウンが始まっている予感。「口の立つ奴」が掘り続けた無数の穴のおかげで、以前は多少潤いのあった僕の感受性もカラカラに乾いてしまった。
先日亡くなった、谷川俊太郎の詩の良さが僕には全然分からない。分からない…と言うのは氏の詩作の作意の波長が、僕の感性に合わないという意味。ただ、谷川氏は天才詩人・金子光晴が大好きで生前は時に金子光晴のような服を着ていたらしい。
金子光晴の詩を読むと、乾いた自分の感性に、一気に水があふれだすような感覚にとらわれる。とめどなく、あふれ出す水の流れ。金子が旅した旅の景色はすでに消えたのだけど。不安な心に潤いを与えてくれるのは、詩の世界なのかもしれないと、ふと思った。