面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

猫族の孤独。

猫は何故なつかないのか、犬のように表情がないのかと考える時がある。もちろん、犬のように猫がなついたら大変。僕が帰宅すると6匹の猫どもが犬のように集まってきたらそれはそれで大変なのだけど。言い方を変えれば、猫は10匹くらいまでの多頭飼いは何とか可能だが、犬は困難とも言える。猫は猫らしく、10匹居ても変になつかず、みんなの縄張りで、距離を持ち勝手に暮らしていけるからなのだ。そのあたりが犬の集団と猫の個人主義の差なのだろうな。ところで犬は賢いのか、猫が賢いのか、比較するための物差しはないが、生物学的には猫より犬の方が賢いのだろう。話をふくらますと、犬を飼っている人間と、猫を飼っている人間はどちらが賢いか。そんな物差しもないのだが、猫好きは猫に似るし、犬好きは犬の性格に似るのだろう。

僕が思うのは「ものごごろ」ついているのが犬で、「ものごころ」ついていないのが猫のような気がする。「ものごころ」というのはいったい何か?中学の頃、ものごごろとは何だと悩んだ記憶はある。ものごごろというのはある日、ぽんと膝の上に手をついて、気が付くものか?要するに社会性、みんな集団だから、仲良く、ワン(犬)フォーオール。オールフォーワンの意識を理解するのが「ものごごろ」が付くということなのだろう。

ところが猫族、そんなニャーフォーオール、オールフォーニャンなんて、そううまくいくものか。私は私のいいようにやる、昼寝する。狩りも自分でやるし、獲物が獲れなけば、腹が減るし、だからといって犬のように人にそう簡単に尻尾は振らないね。という思想で猫族は何千年も生きてきたのだ。

人はどうか?猫族の僕は、正直、どうしても他人とうまくやれない。山に登るも基本単独行。集団で山に登っても一度も楽しいと思ったことはない。そもそも山に登ることは楽しむためでなく、行きたいから行き、それで楽しいならそれでいいわけだ。

今から思うに、学校は嫌だった。小学生から嫌だった。周りに合わせるのがとにかく嫌で、苦痛だった。そしてその苦痛をごまかして生きるのが。この性格は今も変わらない。こんな年になっても一人木の上で昼寝したり本を読んだり、そんな気分。休みの日に友人とどこかに行ったことはない。

僕は「ものごごろ」が付いていないのだな、実は。今更ながら、通勤電車の中でそんなことに、唐突に気が付く。人としては大失敗。もう戻れない。あの頃に戻ったとしてもどうする?また同じ苦しみを味わうことになる。

今更気が付いても遅い。死ぬ間際になって気が付いても遅い。まぁそれでよい。今更犬族のように笑って社会の中で生きていくことは無理。

もともと嫌で嫌で、仕方なかったではないか。そんなことを思い、冬枯れの灰色の車窓を眺めて列車に揺られていると、なんだか少し泣けてくるのだな。

楽しそうに語り合い、スマホで音楽を聴く高校生。僕は列車の通路に、膝を丸く抱えて、一人、僕の方をじっと見つめている半ズボン姿の、薄汚れた体操服を着た、過去の自分の存在に気が付く。そんな幻想を見ると、また少し悲しくて泣けてくるのだが、ちょいと涙を拭いて本をめくるのだ。

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我が猫族の首領寛太の攻撃を足で受ける若猫ポンタ

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寛太のスキを見て足蹴にするポンタ。不意打ちをくらい、固まる寛太。