面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

「悪魔を憐れむ歌」

 

数年前のNHKで「孤独死」を取り上げている番組があった。マンションの一室。70歳過ぎた男性が孤独死し、数か月後に発見された。亡くなった男性の妹が見つかり、田舎から出て来た彼女はマンションの始末やら男性の死のあと始末に困惑していた。孤独死というのは亡くなった人の問題ではなく、亡くなった人の親族、関係者の問題なのだ。亡くなった男性の枕元にはビートルズのCDが積み重ねられ、僕が想像するに彼は大好きなビートルズの楽曲を聞きながら亡くなったのだと思う。つまり孤独な死ではない。ビートルズの全盛期、まさにその曲にガーンと衝撃を受けた現役世代の人なのだ。ビートルズは曲だけでなく、当時の社会情勢、若い世代の生き方にも大きな影響を与えた。ビートルズの解散は1970年、僕の生まれは1960年で、残念ながら、僕がものごころ着いた頃にはビートルズは存在しなかった。でも、今でもビートルズが大好きで65歳になっても、初期のCD「ヘルプ」に気持ちを支えられている時がある。

先月のニュースで話題になったのは1975年に起こった連続企業爆破事件で指名手配を受けた「桐島聡」容疑者が名乗り出て来て死亡した事で、公安の追っ手を逃れ、最後は病院のベッドで「孤独死」したのだけど、かれも当然、ビートルズを聞いていたのに違いない。もちろんローリングストーンズも、ボブ・ディランも、日本の演歌も八代亜紀も。

イスラエルのテルアビブ空港乱射事件が起こったのは1972年。国内では連続企業爆破、国外では空港乱射事件と世界は革命とやらで、たくさんの人間の血が流れた。

2024年2月、今もパレスティナではイスラエルによるホロコーストが行われ、その残虐なシーンは世界に配信されている。ネタニエフは3万人近い民間人を殺害した首相であり、戦争犯罪人なのだ。そんな重大殺害事件の犯人が堂々とインタビューを受け、更に殺戮を続けると宣言している。彼は連続企業爆破事件の犯人がアパートの地下でコツコツ作り続けた手製の爆弾ではない、超高性能の殺人兵器をアメリカから買い、堂々と試し打ちをしながら罪のないパレスティナの人々を殺戮している。

僕の頭が混乱するのは、桐島聡のニュースを見て、ニュースキャスターが識者がタレントが、彼のしでかした事を堂々と批判するのに、次のニュースで報道されるネタニエフの行為について何も語ろうとしない、無為さについてなのだ。

第二次世界大戦後、イスラエルのスパイ機関「モサド」は、当時ホロコーストを指揮したと言われるナチスの親衛隊隊員「アイヒマン」を逃亡先のアルゼンチンで捕まえ、絞首刑にした。さて、ネタニエフは捕まるのだろうか?罰を受けるのだろうか?ネタニエフの虐殺支援者のアメリカのバイデン、トランプ…イギリスのリシ・スナクは罰を受けるのだろうか?

今、ジョンが生きていたら、どんな歌を歌うのだろう?いゃジョンは死んだんだし、僕らが枕元で孤独に聴くのはビートルズじゃなくてストーンズの「悪魔を憐れむ歌」なんだ。

石仏協会に入会す

 

今年、日本石仏協会に入会した。石仏協会はその名のごとく、日本全国の石仏の愛好者、研究者の集まりで東京に本部がある。1977年に開設、なんと47年の歴史のある会で日本唯一の石仏についての民間と研究者の集まり、オタク集団なのだ。年会費を払うと年に3冊、立派な会報誌が送られてくる。そんな協会を知るきっかけは、いつもの上通の古書店、河島書店の書棚でたまたま「熊本の石仏特集号」を見つけた事。協会は超専門的な内容から、素人向けの石仏探訪必携ハンドブックまで発刊している。ハンドブック1冊さえあれば、いつも通る道に鎮座する石仏の見方がよく分かる。石仏の解説はもちろん、石塔、石祠、石灯篭、梵字の解説…都市部ではシンポジウム、石仏見学ツアーまで企画されている。会員はほとんどが年配者だろうけど、みんな石仏に元気をもらっているらしい。(僕も)

 

石仏ファンというのは、自然の景色の中で、みんなの安全平和を願い、悪霊を追いはらってくれる素朴な仏像を愛でる人の事を言う。その石仏はきれいでもなくてもよい。長い間風雨にさらされ、目も欠け、鼻も欠けぼろぼろになり石の姿に戻ろうとも、その想いは美しい。博物館などで金ぴかに磨かれ拝められる仏像とは違うのだ。ひねくれた自分がそんな事をこのブログに書くのは、そんな野仏様に自分の煩悩を払い落として欲しい、邪念があるだけなのだけど。

 

去年まで僕は日本修験道協会にも加入していた。ただ修験道協会からは何の資料も送付されず、中央では頻繁に研究会、見学会が開催されているけど、熊本ではそういう催しも一切なく、うらやましいだけの会に終わった。日本石仏協会のフェイスブックには毎日のように会員からの投稿が湧いてくる。全国津々浦々の石仏ファンがネット世界でも頑張って居るのだ。石仏見てまわるにかかる費用は交通費だけ。石仏を眺め愛でて、みんな、朽ちた石仏を撫で、ぼんやり良い気持ちになり、帰路に就くだけのとてもよい趣味なのだ。

 

古代の人は山や巨岩、巨木に自然の神が居ると信じていた。要するに原始的山岳信仰というもの。古代の人々は、自然から自分たちも生まれて来て、死ぬという信仰なのだ。言葉がないの(仮説)で、ひたすら体全体で自然の神に祈った。この降り続く、冷たい雨が止みますように。日照りの乾いた焼けるような野原に雨が降りますように。ごうごうと頭上を吹きすさぶ風がやむように。山の木々に実がたわわに実りますように。死んだ人が生き返りますように。

 

日本に仏教が伝来したのは700年前後。自然の神を信仰するみんなに、お坊さん達は仏の教えを信じたら心が救えます、そのシンボルとして仏像があります、この教えをみんなで声を合わせてつぶやけば、元気になりますよ。さて仏像にもいろいろなランクがありまして…とかなんとか。その宗派の流れのいくつかが山岳信仰密教と合体し、修験道という流れも生まれ、聖なる山で修行を積み、祈祷を行い、山に寝るから山伏と言い、山伏は各地の山を順番に拝んだで教えを広めた。もちろん五家荘の地域にも修験の道もあり、仏の道もあり、時にキリスト教の道もあったようだけど、遠い昔のことでそれらの道を辿ることは今ではなかなか困難なようだ。

 

ちなみに僕の住む町の隣の天草は相当数の修験の史跡があり、仏教からキリスト教密教修験道が混在している。熊本市内の研究者がその資料を去年、大著「天草の民俗信仰」にまとめられた。世界文化遺産の崎津の集落の中には、天草の乱から明治維新まで、修験の山伏さんが地域の面倒を見ていた場所がある。潜伏キリシタンが信仰していたのはキリスト教ではなく、マリア観音教なのだ。明治維新から数年後、信教の自由となった天草の潜伏キリシタンの信者のほとんどはカソリックに改宗されたが、それを拒否し、自分たちのマリア観音様の教えを守り、今は信仰も途絶えた「今富」という集落がある。今富の潜伏キリシタンの指導者「トクジ」さんは山伏なのだ。

 

僕は特定の宗教を信じない。何事も信じすぎるとロクなことはない。何千年経っても異教徒は殺し合ったし、宗派が違うと戦争しても平気なのだ。今でも虐殺されている人を助けるどころか、虐殺している方を応援したりしながら、平気な顔をしている宗教がある。あんまり歯向かうと平気で原爆落とすし。都合が悪くなると、神のせいにする。

 

去年の夏、栴檀の滝の下流で写真を撮っていた。緑の谷の奥に流れる清流の表情を写真に収めるのはとても難しい。(自己満足な写真ばかりな自分だけど、自己流ではどうしても水の写真は難しい。水は流れ、動き、揺らぎ、反射し、周りの景色を写すから、その瞬間が定まらない) 結果、思う写真は撮れずに、小さな滝でその白いしぶきが打ち付ける流れに、うずくまる白い仏さまを見つけた。単なる、三角形の岩に水が流れるだけに見えるけど、修験の人の滝行の姿はこんな姿に映るのだろうかと感じた。その滝へ向かう小道にはある観音様が祀られている。

 

 

去年の9月に自分の不注意、思い上がりの結果として、またもや五家荘で遭難し皆さんに多大な迷惑をかけてしまった。広々とした道があるのに、頭の記憶回路が暑さですっ飛んで帰り道がどうしても思い出せなかった。何度もレスキューポイントを往復したが、手を打てない。ここは何処か?突然小雨も降り始め、遠雷の音も聞こえてきた。結果、馬酔木の茂みに赤いテープを見つけそのテープをたどり、枝を掻き分けると、杉林の間、足元の向こうに茶色の林道の筋が見えた。道に迷った時に出て来る赤いテープは魔物なのだけど…そうと分っていても足が進む。方向は逆だが、この林道は遠回りながらも国見岳登山口から樅木集落に向かう林道と確信し、杉林の中を駆け降りる。

まだ昼過ぎ。荒れた林道を膝をがくがくさせながら歩いて降りる。途中、爪でひっかいたような、谷底へ落ちる崩落の箇所があるが、木の根を頼りに体を引き上げ、足元がぼろぼろ崩れる中、一気に崖をよじ登る。もういいだろう勘弁してくれと、曲がり角を曲がると、又、激しい崩落地。突き刺さる杉の大木を梯子代わりによじ登り、崖の突端にしがみつき這い上がる。しばらく行くと又、崩落地、また足元の岩がぼろぼろ、崩れる前によじ登る。さっきまで明るい林道の向こうの山の稜線に太陽は沈みかけ、ぼんやり夕暮れが僕の体を包み込み始める。残り5キロの標識を過ぎたところで道に大量の杉が重なるように横倒しになっている。その杉の木の間を這いつくばり、潜り抜け、幹のすきまに見えたのは林道が途絶えた、ものすごい、地滑りの跡だった。もしかしたら、何かの弾みでうつぶせの自分の体もごっそり杉と一緒に谷底に崩れおちるのだろうか、不意に恐怖心が湧き上がり、杉の枝に引っかかりながらも至急撤退!後ずさりした。

 

もう数メートル前の景色も見えなくなる。もう夜なのだ。最後の頼みと、いつも迷惑をかけているOさんの携帯に電話すると、奇跡的にこれまで圏外だった電話がつながり、現状を伝える。自宅にもラインをする。「とりあえずは無事だが、今日は帰れない」と。

 

もうじたばたしても仕方ない。山のふところ深い場所で、夜が明けるまで待つしかない。長い夜…何度時計を見ても時間が進まない。えーぃと合羽を着込み腕を組み、林道の真ん中に体を横たえる。頭上の木々の影の間からきれいな星が見える。途中、しとしと小雨が降って来たり、又やんだり…雨が落ちる音以外、不思議と物音がしない。さすがに9月でも山の夜は冷える。体から水分が抜けたのか、どうしてものどが渇いてくる。筋肉がこわばり硬くなった体を起こし、水の湧き出る、崖の近くまで歩こうと思い立ち上がる。バッテリーが消費するので携帯は使えない。暗がりの中をうろうろ歩き、倒木につまずきそうになる。メガネが曇る。寝ていた場所まで戻る途中の道の真ん中に丸くうずくまり、ぼんやり白い光を放つ老婆の後ろ姿がある。ドキリとする。崩落した大きな白い岩の姿なのだろうか?いゃ、さっきまではそこには何もなかった。その場に居続けるのは流石にまずい。「すいません…」と言いながら、僕はその白い老婆の横を急ぎ足ですり抜けた。後ろを振り返ると絶対ダメだと念じ、次の曲がり角まで急ぐ。更に夜の時間は長くなった。

 

縁起でもない話だけど、誰しも人は死ぬ。僕もリアルに考える歳になった…僕が死んだら、子供の頃、泳いだ海岸で石を3個拾ってきて欲しいと家族にお願いしている。生まれた町に立派な海水浴場なんてないから、子供の頃は家の前の海で適当に泳いで遊び、甲羅干しをした。そのどこにでもある海岸から、手の平に乗るくらいの大きさの石を3個拾ってきて、墓の代わりに置いてほしいと伝えている。そのうち1個は、裏山の見晴らしのいい空き地に置いて欲しい。小学生の頃、仲の良かった浜口ヤスオ君が大阪に転校する前の日に、丘の上から集落を二人眺め、一緒に弁当食べたあの場所に。1個は20代を過ごした京都の鴨川の河原のどこか、出町柳の橋の下でいい。悶々と、過ごした京都の夏。誰も知らない3畳半の間借りから僕の京都暮らしはスタートした。出町柳の駅から電車に揺られ、民家のすきまを縫うように電車は揺れながら、元田中、茶山、そして一乗寺駅。降りると名画座京一会館があった。

 

最後の1個は、五家荘の白鳥山の谷の緑深い、森のふところに置いてもらうように。春になればたくさんの花が咲き、生まれたばかりの清流が岩の間を走り、頭上では春の到来を喜ぶ、冬に耐えた山鳥達の鳴き声が谷に響いて飽きない。アサギマダラも飛んで来るだろう。

 

五家荘の山々には、仏さまが居るのだ。これからは谷に咲く山野草と共に眠る、仏様も僕は写真に収めて行きたいと思う。何しろ日本石仏協会の会員なのだ。

 

仏体にほられて石ありにけり

 

僕が敬愛する、自由律俳人 尾崎放哉の句集で見つけた1句。

僕はそのまんまの石で充分なのだ。

 

 

京都 萩書房に行った 今年2回目

 

知人の主宰する劇団遊劇体の公演の見学の前、なつかしの三月書房の前を通り写真を撮り、京阪三条から出町柳、そこから満員の叡電に乗り一条寺下車、久しぶりの古書店 萩書房に向かった。

叡電がゴトゴト狭苦しい京都の家々の間を縫うように走る時、その車窓から眺める市井の景色が僕は好きだ。古都の地下の暗がりを一方的に走る地下鉄はつまらない。一乗寺電停から右に曲がり通りを歩くと、かの有名な書店・恵文社がある。僕は反対に左に曲がり萩書房さんに向かう。人通りが多い。通りの左側はスーパーだが、昔は京一会館という名画座があった。キャッチコピーは「洛北のシネマサロン」(苦笑) 入れ替え制がない時代で、学生料金たった500円で名画が3本観れた。京一会館ではポルノ映画と邦画・洋画の名作3本立てのメニューが交互に上映され、運営は京大の映画部に任されていた。映画監督の瀬々氏も京大の映画部だった。(ポルノも名作そろい!)

 昼に入り、映画を見終わり外に出ると、通りは夕闇に包まれ始めていた。横の王将でギョーザを2人前食べ、自転車を漕ぎ下宿に戻る。暗がりの部屋の中で持て余す一人の時間がたまらないから、僕はこの映画館までやって来た。そして又、映画館の暗がりから下宿の部屋の暗がりに帰る。一乗寺は学生の町だから、当時の僕と同じ思いで天井の染みを眺めている若者は今も居るだろう。

歩いて5分。萩書房の前に立つ。この店だけは当時のまま。ひょうひょうとした店主の井上氏は、いつも奥の崩れかかった古書に囲まれて30年じっとして居る。残念だが、氏は所用で店には不在、なんと後継者候補の娘さんが店番をしていた。店内も今まで真ん中を仕切られていた書棚がなくなり、おかげで店内をすっきり見渡すことが出来る。どうやらこの発案は娘さんの案らしい。古書店にもそれ相応の暗がりが必要だと思うが、少しでも見やすく、分かりやすくという思いからだろう。今や古書もネットで検索し売り買いする時代だ。リアル店舗ならではの古書との出会いがあるし、その思わぬ出会いが楽しみでもあるのだけど。古書は古い友人との出会いでもあり別れでもあり、新刊本は初めて出会う新しい人物と例えよう。

事前に井上氏に捜索をお願いしていた俳人、尾崎放哉の本(上田都史著)を買う。それと、店内をうろついて発見した「埴谷雄高」(毎日新聞社発行)のインタビュー本を買う。

尾崎放哉は山頭火と並ぶ自由律の俳人。今更思う。良い本は読む年代で受ける感想が変わるものだ。尾崎放哉は41歳で生涯を閉じ、読むことのできる作品数は少ない。その俳句を読む度に受け取る自分の気持ちは変化するもんだなぁと感じる。肺結核などでやせ細り小豆島の庵で一人亡くなった放哉。山頭火は58歳で亡くなったが、病気ではなく、泥酔し心臓麻痺で亡くなったとある。放哉と違い、山頭火には酒を酌み交わす友が居るのだ。ひねくれ者で友人の居ない僕は、最近余計に尾崎放哉の句が沁み入るのだ。そうして放哉愛読者は一人、一人、放哉終焉の地、小豆島の南郷庵への道を辿るのだろう。

僕自体は残念ながら、一乗寺界隈に住んだ事はないが、この小さなエリアに書店が並び、ひなびた喫茶店があり、今も若い人が行き来する雰囲気がなつかしい。だから、萩書房さんには機会があればまた通いたいと思う。娘さんオリジナルの猫のイラストの名刺が良い。夕暮れになると、居ても立っても居られない若かりし頃の自分が居る…のではなく、すでにあきらめの心境で、夕闇に静かに溶けて行く自分の姿が見える。

京都 三月書房に行った。

 

僕の99%は過去の時間で出来ている。当然だろう、今、いるこの瞬間もすぐ過去になり、自分の未来の時間との接点は、ほんのわずか。99.99%は過去の時間で出来ている。歳も60も過ぎ、残された時間も少ない。

例えば20歳の人でも彼や彼女の思考のすべては、99.9%過去の時間の集積で完成している。ただ彼らには、これから蓄積されるであろう、数十年分の時間の固まりへのアクセスが許可されているという事なのだ。

僕ら、オヤジ達にはそのアクセスできる時間の固まりが、縮みはじめたゴム風船のようにいくら息を吹き返しても全然膨らまないのだな。結果、過去に膨らました、幻想の時間を旅することになる。

先月は40年来の友人が主催する劇団「遊劇体」の第66回公演を見学に行った。この事も過去に膨らました風船と今の時間の接点探しのようでもある。劇団「遊劇体」の第1回公演およそ30年前、京大西部講堂の裏手の野外で公演された。地面に穴を掘り、その中から泥にまみれた地中に潜む、セミ役の役者が地上に這い上がってセリフを叫ぶのが始まりだった。

当時の演劇シーンと言えば、情念、どろどろ「状況劇場派」と、それを皮肉る、素の舞台の内出血 「つかこうへい」派と乱暴に二分出来よう。今も状況劇場の流れを組む芝居集団と「つかこうへい」の流れを組む集団があるけど、「つかこうへい」の流れは、今テレビで行われるコントの流れにつながるものがあると思う。例えばその流れは「東京03」が引継ぎ、「つか流」の芝居の味を拡散している気がする。

本来、芝居はその場で見た人の記憶、感性にしか残らない現象なので、昔の事を言っても仕方がない。今になって思うのは、Noteに僕が書いた「遊劇体」の公演の批評も、熱演した役者の想いに水を差してしまった。誰がなんと言おうとも僕はそう感じただけだけど。

彼らの芝居を見に行く前に時間があったので、寺町三条の「三月書房」跡地に向かった。三月書房は2020年にリアル店舗の営業は休止し、ネット書店として営業継続された。シャッターに書かれた店内の画像は当時のまま。確か「当店は古書店ではなく新刊書店です」とか書かれた張り紙を見た気がするが…。

左のガラス戸を引き店内に入ると南面の壁には新刊本からだんだん奥にいくにつれ「吉本隆明」の本のコーナーに当たる。吉本氏の主宰する「試行」のバックナンバーもびっしり並んでいる。なんとも言えない煙草の煙が漂い、振り向くと店主さんがパイプをくわえて本を読んでいる。店内を真ん中で二分する棚もカテゴリー別に分けられ音楽系、思想系、幻想文学系…反対の棚は文庫、童話集などが並べてある。店主の近くの思想系の本は、思想家「辻潤」関連の本、虚無思想研究…黒色革命本などがびっしり。北面の棚には、ガロ系の漫画、単行本が天井までびっしり…つげ義春、林靜一、鈴木おうじ…そして海外の翻訳本など。店の一番奥のガラス戸の中には店主が選んだちょっとクセの或る本があった。その棚の中にある椿實に村山槐多…。

僕のような田舎出の無知な風太郎には、とても理解できない内容の本ばかりだが、とても他の書店ではお目にかかれない本がびっしり並んでいて、こんな世界があるもんだと、少し賢くなった気がした。京都を大学で過ごす人は、三月書房に感動しても順調にいけば4年で京都から出て行くことになる。ぼくのようなフリーターは、だらだら15年近くもうろつくことになる。

一応、辻潤の本は数冊買って読んだけど、辻潤の思想は今の時代に通じるどころか、今の時代の人が追いつけない領域にある思想と感じた。虚無思想の持主、辻潤は結果、餓死するのだ。他に僕が敬愛する詩人のどろガメこと、尾形亀之助も餓死…(尾形の詩を読んで、半年アパートに僕は引きこもった)、僕は餓死するどころか、嘘と言い訳でお腹を膨らませた人生を送ってきた。おかげでこうして昔を懐かしむことが出来る。

三月書房で僕はつまり、毒のような本ばかり読まされてきたのだ。後で聞くに作家で翻訳家「生田耕作」さんも来店されていたとの事。(氏の翻訳のセリーヌの作品は残念ながら読んでいない) ガロの本も毒だらけ。三月書房は毒の本の専門店だったのだ。そしてその毒を解毒することできないまま、当時の知ったかぶりのオヤジ、おばさんは孤独死する。(誰だって最後は孤独死)

我が記憶を構成する三月書房という混沌とした空間はシャッターが下ろされたまま。そんな思いに浸りながら、(田舎もんだから堂々と) 店舗の写真を撮る。そして、三条京阪に向かい出町柳経由、叡電で一条寺駅下車、友人の経営する「萩書房」に向かう。

※京都の詩人「黒瀬克己」さんの詩集も三月書房で買った。「幻灯機の中で」「ラムネの日から」2冊組。レジに持っていくと店主は「黒瀨さんをご存じですか?」と少し驚いたように聞かれたが、僕は会った事はなかった。しかしその詩集を僕は、何度も読み返した。まるで親しい友人の本のように。

気が付けば認知症?その後

 

僕はホームページで探し出した熊本県認知症専門の病院を探し出し予約した。10月13日の金曜日。仕事に何とか区切りを付け、予定では午後2時にその病院に着く予定だった。病院の指示で検査には家人も同行せよという事だった。おそらく僕が嘘をついたり、めんどくさい奴かどうか、客観的に評価する為なのだろう。熊本市内から車を走らせ、2時5分前。家人は駐車場で僕が来るのを待っていた。

病院の受付に行き、名前を名のり順番を待つ…が、窓口の事務員は怪訝な顔をしている。「あの…予約されたのはうちの病院でしょうか?」いきなり、病院を堂々と間違えた。気が付けば認知症…出来過ぎたスタートだった。

「そんなこたぁない。僕が予約したのはこの病院のはずですが」少し意地を張ったが改めて調べるに、その病院から20分ほど離れた違う病院だった。診療内容が同じで、同じ町内では間違えるではないか。ぐちぐち、つぶやきながら、正規の病院に電話し、何とか遅れ遅れの診察になった。

広々とした芝生の庭。建物の上には青い空が広がり、白い雲が湧きたっている。病院の待合室には誰も居ない。精神科、心療内科の病院に患者が寿司詰めという景色はないのだろう。プライバシーをまもるためか、微妙に巧妙に、患者同士の距離が作れるような配置がしてある。

若い女性の看護師が問診をする。先生の診察はない。足し算引き算…カードをめくり記憶テスト。手紙を折り、切手を貼り、ポストに投かんする作業。日頃やっている作業だから難なくこなす。計算は時々間違うが。自分の生い立ちから、これまでの人生について話す。今の仕事は?どこで何をしていたか?そうして、今、ここの椅子に座り僕は、若い明るく清潔な看護師の質問を受けている。清楚なパステルカラーのポロシャツ。良く見るとみんな同じ格好をしている。廊下の奥のベンチでうなだれたまま、検診の時間を待つ40代くらいの一人の女性。自分の生き方について質問される。あなたは生きて来て良かったと思いますか?自分の人生は楽しかった良かったと思いますか?最後の質問がしつこいのだ。そのことについては、時間をくれるのならたっぷり書いて次の診察時にお渡しします。僕は生まれて来て良かったとは一度も思ったことはないし、今が幸せだと思ったこともありません…。頭の中に次の言葉が浮かぶが、彼女は軽い笑顔で表情ひとつ換えもせずに、バインダーの白い紙にさくさく鉛筆を走らせ、そっとバインダーを閉じる。

次は、血液検査。レントゲン…CTの撮影。
おそらく2時間は経ったのだろうか。結果は来週の10月19日の木曜日に出ますとの事。

本来、19日は家人も同行で検診の結果の説明を受ける事になっていたが、パートの都合で僕一人が病院に赴いた。相変わらず広くて、白く清潔な待合室だ。相変わらず、窓から見る景色。ゆっくりした広場の真ん中に芝生があり、奥に白い病棟。誰も歩いていない景色。病棟の向こうにもくもくと沸き立つ白い雲。夏なのか秋なのか分からない景色。

すぐに診察かと思いきゃ、診察の前に若い看護師が30分くらい、知能テストを行う。前回よりも複雑で、記憶テストに使うカードの数も多い。何枚もカードをめくり、覚えた分だけ吐き出す。何度もやっていると、記憶にリズムが出来て来て、どんどん答えを吐き出す。

カードゲームが終わり、白いドアが横にスライドし、診察室に入る。歳は60前か。パソコンを前に、笑顔を浮かべながら男性の医師が自分の名前を言い、僕の診断結果を説明する。

「あなたは、認知症ではありませんよ」「そう、なんですか…それは良かった…です。これで安心しました」僕はほっとして、彼の前で笑顔を見せたのだろうか。

ただですね…医師はパソコンのモニターを開き、CTの画像を見せる。マウスをカチカチとクリックするたびに僕の脳の輪切りになったモノクロの画像が拡大、表示される。「これが上から見た画像で眼球が丸く映ってますね」「はい‥」「ここが、昔、手術されてクリップが挟まれた画像」確かに頭蓋骨の右の端に、白く尖ったはさみのようなものが3つ並んで反映されている。「このクリップの周り…見ていてはっきり分かるでしょう?…取り巻くように黒く色が変わっています…脳がダメージを受けている個所なんですね」

今年、2月に受けた脳外科のMRIでは何の問題もないと、その病院の医師は話していた。これまで1年に1回、手術を受けた病院でMRIの検査を受けていたのだが、その度に何の問題もないと説明を受けていた。脳外科と心療内科の医師で脳の見方がこうも違うのか。

さらに、心療内科の医師の説明が続く、「さらにここ、ここは海馬という記憶をつかさどる脳の器官なんですがね、この海馬の形が少しおかしい。」灰色の脳の画像の中に左右対称の黒い勾玉ののような形をした黒い形が明瞭に見える。「健康な人の脳の海馬の形はこんな形ですが、比較してみると、違いがはっきりわかるでしょう?」

熟練した医師なのだろう。他人の脳の中について、細かく、上手く伝えるのは。しかも冷静に笑顔で落ち着いて…淡々と。

高次脳機能障害」という症状ですね。「いや、日常の生活には何の支障もありませんから‥車の運転もこれまで通り問題はありません」薬を出しておきますから、夕食後に1錠飲んでください。3か月分です。

「先生、では、その薬を3か月飲んだら、もうこの病院に来なくていいわけですか?」「いや、3か月で終わるわけではないです。これから通院してください」

…そりゃ、そうだろうよ。

高次脳機能障害と診断された僕の脳。あれだけ暗くどんよりと影が出来ていたではないか。3か月かそこら、薬を飲んだくらいで脳の暗い影が消えるわけない。医師から見たらそんなとぼけた質問した僕の脳は救いようがないと思ったのだろう。これまで朝に飲んでいた薬が6錠。夜に飲むのが、今回の薬の追加で2錠となる。

セレニカR…飲むと気分が重くのしかかる。

「気が付けば認知症」ではなかった。これは幸運なのか、悪運なのか。なにかの運命に生かされてきただけで、これまで生きていてよかったと思ったことはない。もし「生きて来て良かった、幸福にと思った」という思いがあったとしても認知症になれば、きれいさっぱり消え去るのだろうが、僕の変形した海馬はいびつな記憶をしまい込み、違う記憶を吐き出すのだろう。日常生活に支障はないと先生は言うけど、これからもこんな自分との付き合いが長く続くのだろう。

すぐに書き残そうと思っていたが、10月から長い時間が経ってしまった。

演劇「なんじゃ主水」のスキマの向こう。

 

11月24日に京都で劇団遊劇体の第66回公演「なんじゃ主水」という演劇公演を観た。

舞台は素の空間。民家の中で、登場人物の数だけ座布団が横一列に敷かれ、役者はその座布団に座り客席に向かいセリフを発する会話劇。本来ならば各自テーマについて向かい合い言葉を発するのだけど、遊劇体の基本の演出はすべて役者各自が観客に向かいひたすら言葉を発するのだ。横に座る登場人物ではなく、喜怒哀楽の言葉はすべて観客に真向かいストレートに発せられる。小道具も一切ない。時に感情的なセリフでも削りとられ、シンプルな会話のやり取りに変換されている。(演出は苦労したろうな)その言葉を丁寧にひとつひとつ積み上げて創る空間に、小道具は不要。

 

そこまでして、遊劇体がモチーフにした話の内容は「町内会」

学校を定年退職した主人公、ようやく夫婦ともども、老後の人生を送る二人に飛び込んできた「災難」とは、町内会の次期役員の話。当日集まったメンバーもいろいろな職業に付きながらもその「災難」に向き合おうとする。今や高齢化の社会、老人会は何もせずに予算を食いつぶし不平を言う。他にもイベントやら何やらで、大忙し。それをみんなで何とか乗り切ろうと集まるメンバー。時に喧嘩、ののしり合う彼らを、主人公とその奥さんはとりなし、話をまとめて行こうとする。相当な心労。主人公の奥さんは次第にアルコールで喉を潤す。

 

話し合いの途中、突然、彼らの耳に救急車、ヘリコプターなどいろいろな「不安な音」が降りかかる。

 

さてまだ一人、会合に姿を現さない人物が一人居る。もしや彼に何かあったのか?

「不安な思い」のまま、話は終盤に差しかかかる。少しずつ、姿を現さない人物の情報が洩れ始め…クライマックスにその「不安」がみんなの前に姿を現す。

 

Xなどでこの劇の批評を見るに、おしなべて好評。やさしい町内会の人たち。みんな一生懸命、こんなに大変、なんだ…とか。僕も久しぶりに遊劇体の芝居を観て、こんな場所に着地したのかと、京都の底冷えの寒さの中でほっこりした。

 

若い年代の人には実感が湧かないはずだ。自分の住む地区の維持管理に親の世代がどれだけ苦労しているのか。この演劇で、少しは大人の世界の苦しみを、垣間見る機会があるのだろうし、同世代の人々はあるある、分かる分かるよと、うなずき合う。

 

しかし、この舞台にもう1シーン足らない場面がある。

 

それは、登場しなかった影の存在。みんなが退場した後に、取り残された1枚の座布団の上に座るはずだった影の独白。

 

…もしくは、警察の留置所の独房での独白。

(それを「観客は想像せよ」という芝居なのだろう…が。)

 

あまりにも芝居に似ている…僕の環境、僕の姿…

 

僕の住む集落は半島の突端、小さな港町のさらに突端の小さな集落。世帯数は100世帯にも満たない。高齢化が進み、子供の数はゼロ。毎年毎年、人が亡くなり波にさらわれる小さな砂山のようだ。

 

数年前に談合し、やむなく「公平に」区長や会計その役員を10名足らずの住人で順番に回すことにした。任期は2年。今の区長は元役場の職員。

 

僕は生まれ育ったこの町で高校まで過ごし、京都に出て、15年経て帰郷した、が…この町にはなじめない。この町の人も僕になじまない。

 

そんな僕も4年後に区長になるわけだが、みんな密かに恐れているようなのだ。

僕が何かをしそうで、何かを言い出しそうで。お互いとんだ「災難」なのだ。

 

つまり我が町での現実の舞台では、姿を現すのが、僕一人なのだ。あと、いつまで経っても姿を現さない数人の影…

 

舞台の奥の暗がりでひそひそ話が聞こえる…

「何を考えとらすか分からん」

「変な仕事しとらす」「家の中には猫がいっぱい」

「猫と会話している姿を見たばい」

「京都で過激派…ていうか、爆弾ば…」

「脳の手術ば、受けらした…」「屁理屈ばかり言う」

 

…全然、愛想もなかし好かん。あがん変な人が区長になるなら、こん町も終わりたい。

 

上演時間は1時間30分。舞台でひとつだけ、誰も座らない座布団の沈黙に僕は向かいあったのだ。

 

 

紅葉のやまの終わりに。

 

ほぼ2か月ぶりに五家荘の山を歩いた。紅葉の時期である。カーラジオからは「八代市五家荘地区が今、紅葉の見頃の時期を迎えています」とニュースが流れているが、全然感情が伝わらず、まるでAIの音声のようだ。局アナは、毎年毎年同じ原稿を繰り返し読んでいるだけなのだろう。逆に、AIの方が人間よりも感情的な読み方をすると感じる時がある。

 

10月に博多で開催されたネットセミナーに参加し、話題のチャットGPTの話を聞く機会があった。(僕のような60を過ぎた老いぼれでも、指一本でパソコンのキーを叩きながら、通販サイトの運用を行っているのだ。)

 

その会場でチャットGPTの運用の実演をしたのも60近いおじさんだった。そのチャット君のすごいところは画面から何でも出してくれるところなのだ。そのおじさんがパソコンに向かい早口で指示を出す。「街路樹が紅葉した歩道を、若い女性が歩く」と言えば、それらしき女性がその指示通りに、紅葉した並木道を歩いている画像がモニターに出て来る。続けて、そのチャットオヤジが指示を出す。「街路樹の景色を浜辺に変えて、若い女性が歩く画像」と言えば数秒後、美しい浜辺を若い女性が歩いている画像が出て来る。周りのみんなは驚き「おー」と声を出しため息をつく。

 

だからどうした、と思う。

 

文章の加工力もすごい。今、僕が書いた文章を、「もっと女性に向けてかわいく書き直せ」「もっとニュース風に書き直せ」「10パターン、いろいろ書き直せ」と指示すれば数秒後、同じ意味の10パターンの書いた文章が表示される。

 

講演後、その手品師のおじさんの周りには人だかりができた。おじさんは、さも自慢げである。結果、その日の交流会の半分の時間は情報交換という本題から外れ、チャットGPTに乗っ取られてしまった。

 

 

自然の山に行き、どう感じるかは個々人の主観であり、何も感じない人が居てもいいし、どう感じるかは自由、勝手なのだ。僕の山歩きの効用は、頭がすっきりすること。美しい紅葉の景色に感動するより、山の精の澄んだ空気に、気分が落ち着きいやされる…そのことを「感動」と言ってもいい。写真を撮るにも絵葉書のような写真ではなく、そうでない景色を探してしまう。そうでない景色はどこにある?だから急いで登るよりも、出来るだけゆっくり歩き、登る事にしている。

今年の五家荘の山々は、また一段、疲れたように思う。繰り返す大雨、大風、気温差、崩落川の氾濫…それでも紅葉の景色は美しいのだろうけど、山々は何か疲れているのだ。

いつもと違う、谷沿いの林道を歩くと杉林の奥の荒れた作業路に見慣れぬ赤い花が咲いている。「ホタルフクロ?」それにしては、その鈴のように連なる赤いつぼみは妖しく美しい。口先に水玉模様の重なりが見える。なんとも、虫を惑わしそうな怪しげな紋様。その子の名は「ジギタリス」。和名はキツネノテブクロ。知る人ぞ知る、毒を持った外来種。開花時期は6月前後で、すでに過ぎたはずなのに、今も赤々と花が咲いている。僕は五家荘でジギタリスを初めて見た。

 

 

自然環境の大変化がそうさせたのか。しばらくすると五家荘の森は赤いジキタリスの赤い花で埋め尽くされるのか?山が疲れたからこうなったのか。

 

嗚呼、そうだ…この景色は博多で見たチャットGTPが制作した、血の通わない継ぎはぎだらけの画像の匂いがする。そんな画像を見て「美しい!自然の景観!」と、みんなの壊れた脳は大きな拍手をするのだろうか。