面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

演劇「なんじゃ主水」のスキマの向こう。

 

11月24日に京都で劇団遊劇体の第66回公演「なんじゃ主水」という演劇公演を観た。

舞台は素の空間。民家の中で、登場人物の数だけ座布団が横一列に敷かれ、役者はその座布団に座り客席に向かいセリフを発する会話劇。本来ならば各自テーマについて向かい合い言葉を発するのだけど、遊劇体の基本の演出はすべて役者各自が観客に向かいひたすら言葉を発するのだ。横に座る登場人物ではなく、喜怒哀楽の言葉はすべて観客に真向かいストレートに発せられる。小道具も一切ない。時に感情的なセリフでも削りとられ、シンプルな会話のやり取りに変換されている。(演出は苦労したろうな)その言葉を丁寧にひとつひとつ積み上げて創る空間に、小道具は不要。

 

そこまでして、遊劇体がモチーフにした話の内容は「町内会」

学校を定年退職した主人公、ようやく夫婦ともども、老後の人生を送る二人に飛び込んできた「災難」とは、町内会の次期役員の話。当日集まったメンバーもいろいろな職業に付きながらもその「災難」に向き合おうとする。今や高齢化の社会、老人会は何もせずに予算を食いつぶし不平を言う。他にもイベントやら何やらで、大忙し。それをみんなで何とか乗り切ろうと集まるメンバー。時に喧嘩、ののしり合う彼らを、主人公とその奥さんはとりなし、話をまとめて行こうとする。相当な心労。主人公の奥さんは次第にアルコールで喉を潤す。

 

話し合いの途中、突然、彼らの耳に救急車、ヘリコプターなどいろいろな「不安な音」が降りかかる。

 

さてまだ一人、会合に姿を現さない人物が一人居る。もしや彼に何かあったのか?

「不安な思い」のまま、話は終盤に差しかかかる。少しずつ、姿を現さない人物の情報が洩れ始め…クライマックスにその「不安」がみんなの前に姿を現す。

 

Xなどでこの劇の批評を見るに、おしなべて好評。やさしい町内会の人たち。みんな一生懸命、こんなに大変、なんだ…とか。僕も久しぶりに遊劇体の芝居を観て、こんな場所に着地したのかと、京都の底冷えの寒さの中でほっこりした。

 

若い年代の人には実感が湧かないはずだ。自分の住む地区の維持管理に親の世代がどれだけ苦労しているのか。この演劇で、少しは大人の世界の苦しみを、垣間見る機会があるのだろうし、同世代の人々はあるある、分かる分かるよと、うなずき合う。

 

しかし、この舞台にもう1シーン足らない場面がある。

 

それは、登場しなかった影の存在。みんなが退場した後に、取り残された1枚の座布団の上に座るはずだった影の独白。

 

…もしくは、警察の留置所の独房での独白。

(それを「観客は想像せよ」という芝居なのだろう…が。)

 

あまりにも芝居に似ている…僕の環境、僕の姿…

 

僕の住む集落は半島の突端、小さな港町のさらに突端の小さな集落。世帯数は100世帯にも満たない。高齢化が進み、子供の数はゼロ。毎年毎年、人が亡くなり波にさらわれる小さな砂山のようだ。

 

数年前に談合し、やむなく「公平に」区長や会計その役員を10名足らずの住人で順番に回すことにした。任期は2年。今の区長は元役場の職員。

 

僕は生まれ育ったこの町で高校まで過ごし、京都に出て、15年経て帰郷した、が…この町にはなじめない。この町の人も僕になじまない。

 

そんな僕も4年後に区長になるわけだが、みんな密かに恐れているようなのだ。

僕が何かをしそうで、何かを言い出しそうで。お互いとんだ「災難」なのだ。

 

つまり我が町での現実の舞台では、姿を現すのが、僕一人なのだ。あと、いつまで経っても姿を現さない数人の影…

 

舞台の奥の暗がりでひそひそ話が聞こえる…

「何を考えとらすか分からん」

「変な仕事しとらす」「家の中には猫がいっぱい」

「猫と会話している姿を見たばい」

「京都で過激派…ていうか、爆弾ば…」

「脳の手術ば、受けらした…」「屁理屈ばかり言う」

 

…全然、愛想もなかし好かん。あがん変な人が区長になるなら、こん町も終わりたい。

 

上演時間は1時間30分。舞台でひとつだけ、誰も座らない座布団の沈黙に僕は向かいあったのだ。