面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

不思議な1年だった。


今年は不思議な1年だった。

まだあと1か月残っているけどね。

ある時ふと、縄文時代の土器、土偶に心引き寄せられ、

6月には念願の本物の縄文土偶を長野の岡谷市まで見に行った。

目の前に国宝の縄文のビーナス、仮面のビーナスを見、

手元にある大きな縄文土器を上から眺め

その土器の匂いを嗅ぎ、土器の中の空気を吸った。

 

熊本から強行軍の旅だったが、これが最後と名古屋から松本行の特急に乗り、

尖石縄文考古館を見てトンボ返りに京都に戻り、

翌日は猛暑の奈良の法隆寺に行った。

何を見に行ったかと言うと五重塔の下にある塑像を見に行ったのだ。

ついでに五重塔を東西南北、支える邪鬼と交流した。

 

たまたまだが、岡谷市の観光案内で長野の諏訪神社は山の神を祀る神社で

明治の廃仏稀釈で貴重な仏像が破壊、放棄された有名な神社だと知った。

諏訪神社は全国に約1万もあるという「諏訪神社」の総本山。

 

そうして天草に立ち寄ったて見たのが天草の諏訪神社

更に更に、手に取り、読み始めたのが、民俗学者折口信夫」の死者の書

 

自分の生涯のテーマが五家荘の自然の中の迷宮に棲むことで

釈迦院、尺間神社の歴史を調べ、学ぶうちにたどり着いたのが

国見岳の信仰の事とお隣、椎葉村修験道、神楽の系譜。

 

そうしてまた訪れたのがお隣、天草市矢岳神社

そして倉岳神社、同じく倉岳町にある諏訪神社

諏訪神社は海岸に鳥居が建てられ、

海からの神を迎えている神社でもある。

 

折口信夫の視点から見れば、海の向こうの常世の入り口が

諏訪神社の鳥居となる。諏訪神社の鳥居の下には

縄文、弥生時代の土器が発見された。

 

縄文から現代まで僕の短い現世の時の中で

鈍く点滅する、山々の神社の鈍い光、

稜線を歩く、山伏、修験者の足音。

風の音。

短い1年の時の中で

僕の頭の中に起った収拾のつかない出来事。

 

例えば、本を読むにしても

いつか読もうと積読していた本はそっちのけ、

残された時間の中で読みたい本、読むべき本を

選び、手に取るべきなのだ、と思うようになった。

 

心理学者の有名な、河合隼雄氏も

それまで信じていなかった夢診断から

西洋の科学的な心理実験を認め

帰国後は、日本人の夢診断へ研究が移り、

そこで、明恵という有名な僧侶が

生涯自分の夢を記録していた事に気が付き

明恵という僧侶の夢の診断を始め

日本人の心理分析を極めようとした。

 

明恵の唱える「華厳経」は

森羅万象、宇宙の事はすべて繋がりがあるという

壮大な教えで、河合氏はその思想に

大いに感銘したそうで。

小さな僕の脳の器にあふれる

知の山々。その山と山をつなぐ稜線の上を

危うく歩いてきた、1年だった。

 

普段は月に1度は五家荘の山を歩き、

草花なの写真を撮り、山の精霊と会話して、

心を落ち着かせていたのだが、

今夏の大雨で肝心の林道も大崩落

山への道が遠のいた。

 

そんな時間の中で出会ったのが

古代文化、自然崇拝の宗教の世界だった。

気になるのは昨日の夢で僕は、常世の世界に

膝を立て、半歩進んだという変な夢を見たことだ。

矢岳神社に行く

国見岳の事を調べているうちに石の宗教について関心が高まり、隣町の天草市矢岳神社に行った。折角の日曜なのに用事があり、動けるのは昼前からだったが車で1時間ちょっとで行けるのだ。白嶽の山頂近くの湿地帯にトンボを探すのも楽しいし、白嶽の巨石群にも改めて興味が出て来た。五家荘地区の国見岳の歴史を調べて行くうちに、巨岩を山の神と信仰し、太陽の恵みに感謝しながら、日々を自然とともに生きる、古代の人の生き方を想うようになった。これで「おかしく」なった僕の心も少しは落ち着くかもしれんと、山の息づかい、森の空気を吸いに行ったのだ。そもそも僕のような性格だと、古代の時代でも厄介な奴だったとは思うけど。

山頂近くの湿地帯は最近の台風で、荒れ放題だった。周遊できる散策路も、道が分からないほど草ぼうぼう。長靴を履いて正解だった。この湿地帯は日本最小、全長3センチ程度のとんぼ「はっちょうとんぼ」が生息していると有名で、道の端々に、トンボを取ったらダメ、撮影も湿地に入り込まないようにと、警告板が設置されているが、この荒れ放題の景色を見な。とても自然を保持する気はないのに、外部から指摘され、しぶしぶ警告版を木にくくったのがよく分かる。管理も町から民間に委託されるようになったのだ。田舎に住んでいる人々というのと自然が好きという人とは、全然違う。まぁ、こんな荒地には当分、誰も来ないだろうから、僕にとっては幸いなのだがね。プライベート湿地とでもいおうか。
「はっちょうとんぼ」は居なかったが、赤とんぼ達が、写真を撮ってくれとポーズを付けて僕を何匹も追いかけて来る。こんなにとんぼに好かれたのは初めてだ。

で、帰りに久々に矢岳神社に向かう。雑木林の向こう。蜘蛛の巣をかき分け参道を登ると岩の間に神社の本殿が見えてくる。岩にはシダ類がからみつき、独特の雰囲気がある。また、神社から更に崩れた石の階段をたどると巨石群が出て来る。このスペースもネットとかでパワースポットとして多少話題になったので、木のベンチが設置してあるが朽ち果て、人影もない。草ぼうぼうの荒地と化している。まず虫が嫌いな人はいかん方がいい。耳の周りをブヨがうるさく付きまとう。いろいろ「いわくつきの説明版」が設置してあるし、ネットではもっと詳しく、いわれや石の方角などがなんとか、いろいろ書かれてあるが、疑わしいのは書いた人の名前が書かれていない事。それなのに、立派な説明板なのだ。この地区の教育委員会とか郷土史家の名が記されていればいいのだが署名がない。(つまり責任が持てない放言と断言す)

湿地と同じで、本当は石がどうの、誰もそんな事どうでもいいのだ。観光客さえ来れば。石にある丸いくぼみも自然に穴が開いただけで、そんな穴に意味を付けても無意味なのだけど…そういわれて見ると何だか秘密めいて見えてくるのが人情か (苦笑)。

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ただ確実に言える事は、ここは古代からの巨岩信仰の場であり、昔は祭礼の場であったのだ。天草東海岸は海に沿い、山がせりあがる地形で、尾根道があり、ピークが白嶽、竜ヶ岳、倉岳と続きその各ピークには神社がある。巨岩信仰を伝えたのは修験道、山伏が尾根伝いに教えを伝えて回ったのだ。この伝承の歴史を専門家に調査してもらえば (それこそ掘るのだ!) もっと貴重な文化財が出てくる可能性が高いと思う。パワースポットなど変な横文字を使うから、山岳信仰の根っこの部分を感じる事ができなくなる。古代シュメール、云々というのはいったい誰が言い出し、証明したのか?

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更に面白いのは、天草はキリスト教が広まった地でもあり、先に各山々には修験者が居て仏教を広めていたはずで、そのバランス関係にも興味がある。更に昔は神仏習合、神も仏も仲良く一緒に住んでいたのであり、明治維新政府の愚行で山の神様 ( 今で言う天皇ではない )と仏様を無理やり引き裂いたわけで、矢岳神社の敷地中にも五重の塔や、仏像が祀られていたはずなのだ。もしくは焼き払われた。

また、矢岳神社から白嶽山頂に向かう道が神社に向かう道よりも石段が広く、整備された跡がある。過去、こんな広い石段を相当な数の人々は登り降りしたのだろう。ネットにもっともらしい言説が書かれ、ひと時「話題」になるのはかまわないが、ただそれだけの「話題」でブームが去れば終わりというのも、もったいない気がする。

何にしても山の精気はいいものだ、本来ならば一人、巨岩群を前に胡坐をかき、瞑想する予定だったのにこうも荒れ果て、草生し、ブヨに蜘蛛の巣が体にまとわりつくのも、もうたまらん。退散!
帰宅し古代に思いを馳せると、夜は眠れなかった。

今の世の中には、神のふりをした「違うもの」が多すぎる。「違うもの」とは何か、それが理解できないのは人間だけなのだ。邪教を信じると何も感じられなくなる。トンボたちはみんな知っている。人間は「違うもの」を見誤っている。

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国見岳の事。

 

五家荘に鎮座する国見岳は標1739メートル。熊本県最高峰の山なのだ。熊本県民のほとんどが熊本の最高峰は阿蘇山と思っているが、そうではないし、そもそも阿蘇山という山は存在せず高岳、中岳という山々の総称なのだ。五家荘と同じ烏帽子岳という山もある。ついでに調べていくと、阿蘇には西巌殿寺(さいがんでんじ)という天台宗の寺院があり、古くから阿蘇山修験道の拠点として、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院だったそうだ。

五家荘の山々にも修験道の山があり、そこらも共通点がある。神仏習合、山の神さんがみんなの暮らしを見守ってくれていたのだし、みんなの気持ちは山の神さんと自然とともにあったのだろう。そして西巌殿寺は釈迦院と同じく、明治政府の廃仏稀釈で廃寺が決まり山伏は還俗(げんぞく)した。※還俗とは、戒律を堅持する僧侶が在俗者・俗人に戻る事。

泉村誌を読むに、国見岳は過去に大々的な調査が行われた。

※昭和62年(1987) 現地を視察した研究者が次のような指摘をした。

山頂にある山形の巨大岩は祭祀の拠点「磐座(いわくら)」とみられる。そして山頂付近の調査で西側の磐座の前に柱の穴らしきくぼみがあり、表土をさぐると、4か所の穴が確認された。

この結果を踏まえて、平成4年(1992年)5月の3日間、その4か所と中心部の穴跡の発掘調査が行われた。

◆調査主体者

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏 (早稲田大学名誉教授)

保存会事務局 中島和子 (京都精華大学教授)

熊本県文化課、泉村教育委員会、などなどの面々

その後、再調査が平成14年(2002年)7月に行われた。

◆調査主体 NPO古代遺跡研究所 所長 中島和子

調査団 日本考古学協会山鹿市立博物館長 隈昭志氏の面々

東西南北、深さ、6メートルのトレンチ調査が行われ、

結果は残念ながら、新しい発見はなく、

今後は更なる大々的な調査が求められる…と、書いてあるところで終わり。

…おそらく当時の詳しい調査結果はどこかに保存してあるのだろうが、僕には見る事はできない。

それ以上はネットで、国見岳に関連する情報を深堀りするしかない。

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そもそも※昭和62年(1987) 現地を視察した「研究者」とは誰か?

ついでに言えば、何故その研究者の氏名が記されていないのか?

 

単純に考えれば、平成4年に調査された、調査主体者の

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会会長・井伊玄太郎氏の事だと思うのだけど。

神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、

臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

国見岳山頂の巨岩を山の神様の代わり「神籬」として、当時の人々は山の神様に祈りを捧げていたのだろう。「神籬」は現代、地鎮祭などで用いられている。ちなみに、国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会の情報は、ネットの検索にも出てこない。全国にも国見岳という名の山が多々あり、同名の「国見岳」のネットワークに何か深い意味があるのだろうが、井伊玄太郎教授の書かれた本に国見岳にまつわるものが見当たらない。

さて、次に出てくる方

国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会事務局 中島和子(よりこ)氏

中島教授は2回目の調査主体のNPO古代遺跡研究所所長でもある。古代遺跡研究や、磐座についての論文を多数発表されているが、古代遺跡研究所の活動資料はインタ―ネットでは見当たらない。ただ、全国で古代遺跡、縄文についての講演活動をされていて(過去には熊本でも講演されていた)その参加者のブログなどで、多少の研究の内容をつかむことが出来た。

中島氏の略歴には、「古代における政治と祀り」をテーマに日本とアメリカ大陸先住民の古代文化を研究中。九州と六甲山・甲山周辺の磐座(いわくら)を守る運動を起こしていると書かれてある。

磐座(いわくら)とは、「神の鎮座するところ。神の御座」。「そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在地は聖域とされた」との意味。

五家荘の国見岳の山頂、巨岩は、つまり磐座、神籬の場、

神の鎮座する場所でもあり、古代から神聖な祀りの場だったのだ。

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◆中島教授の講演の一部(講演を聞いた人のブログの要約)

漢文の古事記では日本語の言霊の真意は書き尽くせない。

(例)天地初発之時 於高天原 成神名 天之御中主神

と漢文で書かれているが、日本語の言霊では

「あめつち はじめてひらけしとき たかまのはらに なれる

かみのなは あめのみなかぬしのかみ・・・」

つまり、漢文の「天地」は「てんち」てんとちという事なのが、

「あめつち」となると「あ」「め」「つ」「ち」の一つひとつの

言葉に沢山の意味が含まれている。

例えば

「あ」…目に見えない微粒子。宇宙に満ち満ちている。根源。純粋などの意味

「め」…芽。始め。動き。

「つ」…集い。つくる。

「ち」…凝縮。力の根源。

イワクラ天津神に降りていただく所。だから、天に近い高いところにつくる。

古代の祈りは太陽の光の暖かさに感謝し、自然の恵みが豊かであることに喜び、個人のみでなく全てのものが豊かになるようにという思いがある。それなのに、現代の人間の祈りといえば自己の欲望や自分勝手な願いばかりが多く、神社でもそのような祈願が主流になっていることを中島教授は嘆かれていたようだ。

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磐座について深堀していくと、日本磐座学会というものにたどり着く。学会は全国の磐座についての情報を発信したり、講演活動もある。

フェイスブックも開設され「生きた」情報がどんどん公開されている。国見岳の神籬(ひもろぎ)保存会とは、かすかに道が繋がっているような気がする。

http://iwakura.main.jp/

国見岳がきっかけで、インターネットの情報の森の中、又僕は道に迷いつつある。(苦笑)

8月に国見岳での遭難事故があった。無事、救助されて良かったと思う。僕も同じく五家荘の山での遭難経験者だが、五家荘の山は深く、いったん間違って降りたり、落ちたりすると中々引き返せないのが実情なのだ。しかもその時は自分がどこにいるのかも分からなくなる。迷ったときは、その場所に戻るのが鉄則だが、谷底からその場所を見上げるに、そこまで戻るに相当な体力が居るので、そのまま、助かりそうな場所を目指して歩き始める、森の深みにはまるわけだ。

今、国見岳の登山口までの林道は崩壊し、僕の現状では捜索の手伝いに行くにも登山口までの林道の途中で体力が切れ、うずくまり、捜索メンバーから保護されるのも恥ずかしいので、捜索には参加出来なかった。つまり遭難された方の無事を祈るしかなかった。

8月の末に、たまたま坂本村で山好きの老齢の方と出会い、五家荘の山の話題になった。その方は数10年も前に国見岳に登った事があり、友人が山頂近くで遭難されたそうだ、友人は1日かかり谷底から這い上がり助かったそうだが、その時の国見岳の山頂は今の展望のいい山頂とは違い、うっそうとした森だったそうだ。今の五家荘は強風で尾根の樹々も倒れ、見晴らしもよくなったが、当時は深い森だったのかもしれない。その森の中に磐座は鎮座されていたのだ。国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像する。

中島教授の指摘の通り、現在の社寺、宗教で、人は物欲まみれの祈願ばかりで、逆に神も仏様も逃げ出してしまっているようだ。

古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った。その祭りのシンボルが今も国見岳に残っているのは、何ともこころ強いではないか。

もう、めったに山頂まではいけないが、山道を歩いていて見つける石ころでも、神が居ると信じたら、それが神と信じたいと僕は思いたい。それだけで古代の神と人と、交信できる気がする。

家で寝ていて、国見岳で執り行われた神籬の儀式の景色を想像すると、ぽっかり天井が開き、山の夜空が広がる幻想を一人、見る。

 

2022年 五家荘、晩秋の1枚。

2020年 五家荘、晩秋の1枚。

 

今夏の水害で大きな被害を受けても、五家荘の山々は例年通り、鮮やかな深紅、黄の葉の色に彩られて飽きることはなかった。紅葉祭りの期間中、離合の為の一方通行の道路規制に加え、水害で寸断された道路は通行禁止の迂回路で大回り、複雑な紅葉巡りのルートになってしまった。

気の早い自分がまず、出かけたのが11月3日。もしかしたら樅木川の上流の自分だけの撮影ポイントの木々がすでに色づいているかもしれないと焦ったのだ。(そこに行くのは数年ぶり…) カメラを二台(珍しく気合が入る)をバックに押し込み、レンズ数本、三脚を無理に括り付け、非常食(スルメにチョコ)…これで大がかりな極私的撮影隊の出来上がり。万が一に備え、長いロープ(テープ)もそろえ、緊急時はこのテープを木に括り付け、谷に降りたり、這い上がるのだ…おっと、ウェーダーにも着替えないかん。面倒くさいが秋の川の水は冷たいぞ。

秘密の空き地に車を停め…ま、大掛かりな撮影隊の進軍の前に、まずは偵察じゃいと、スティック1本で坂を下る。さっさっ、ざっざっと木にしがみつきながら、枯葉の敷詰まる斜面を、川を目指して降り続ける。

 

と、意外と簡単に河原に着くも、はて?木がない…。

右の岸は背丈ほどの高さに地面がざっくりえぐられ、断層がむき出しになっている。左の岸は激流に洗われたのか、岩がむき出しになり、木々は流され、いつもの景色が消えていた。全部、流されたのだ。足元の水たまりには、茶色に枯れた葉が重なるだけ。僕はそんな景色の中を上流に向かって歩き始めたが、行けども、行けども同じ薄茶色の景色が続いていた。山の再生と同じく、川の再生にも何年かかるのだろうか。

決局、失意のまま、車に戻り五木経由で帰路に就いた。

(ついでに恥を語ると、帰路の途中、仁田尾神社に行ってみようと思い付き、途中まで車を走らせたのが、これまた恐ろしい道路で、さすがに車で行くのは危険と判断し徒歩に切り替え、長い長い、神社への道を歩いたのだが、この道が、とてつもなく怖い。崩落寸前の道路があり、ガードレール代わりに置かれた杉の大木の下は、目もくらむ谷底で、谷から吹きあがる冷風に汗も冷え、身も震え上がり、前進を断念…樅木川に次ぐ失意の連続の1日だった。)

 

今年の五家荘の紅葉のピークはおそらく11月5日~10日前後だったようだ。その肝心な期間に用事ができ、最後の撮影のチャンスは11月13日。しかも天気予報は雨。それでも土砂降りの雨以外は雨でなしと、五家荘に向かう。

こんどは二本杉ルート経由で、水害の被害が少ないと思う「ハチケン谷」の紅葉が狙いだ。二本杉から直接行けずに大きな遠回りして、ハチケン谷に向かう。「京の丈山」を目指すのではなく、登山口までの道沿いの紅葉を求めての山歩きとした。

 

残念ながら谷の紅葉は終演。落葉しきり…遅かった。

雨男を自任する自分だけど、時に、曇り空に日が差し、青空が見える…やっぱり来て良かった!と思うも、つかの間、雨は降り続く。いつか見た光景…

 

雨は雨でも山歩きは楽しと思えるのは、春の優しい細やかで暖かな雨、夏の熱さましのさっぱりした雨…さすがに11月の雨は重く冷たい。三脚が重い…結果、途中で断念…。

極私的に、満足して撮れたのが、車を停めた場所の足元の"1枚"だけだった。

 

 

 

 

 

ブログ、引っ越ししてきました。

note.

 

ちょうど2年前、noteにブログを引っ越しして108件のブログを書いてきました。思うところあり、またハテナブログに引っ越ししてきました。

noteは、例えて言えば、大きな、おしゃれな都会の本屋。たくさんの人がやってきて

感心のある内容の記事を探して読んだり、買ったりする。書き手も、そんな読み手を探して記事を書いたり、売ったりする。そんなこたぁ、全然知らない田舎ものだから…なんつうか、その都会の本屋のおしゃれさについていけないと突然朝から、思い立ち、夜になって早速、引っ越し作業しました。何もハテナブログがどうの言うつもりはないし、ただ、ハテナにしてもその他のブログは、みんな大きなモールの中の本屋ではなく、山の中の一軒家という構えだと思う。ので、また、ハテナでぼちぼちブログ書くことに。幸い、頭の手術から来年の2月で5年経ち、突然死ぬことはないだろうし、どんどん劣化していくのが分るけど、まあ、最後のお店として閉めた雨戸を2年ぶりに開けます。

 

 

悲しきダムと五木村

 

僕個人と五木村の付き合いは長い。もう30年近くになる。釣りや登山で、五木村の山や川に入り込んだ。特に川についてはヤマメ釣りにはまり、分水嶺となる大通り峠を下り、道沿いに流れる五木小川に竿を下ろし、一日を過ごした。基本ヤマメ釣りは一人なので、誰も居ない五木の川を独り占めにした。悲しいかな、全然釣果はなかったけど。

その当時から五木村にはダム問題が絡みついて離れなかった。ダムの建設予定地は五木に限らず、お隣の相良村にまで広がり、ダム本体の建設予定地は相良村の野原小学校の敷地内に予定されていた。野原小学校は谷間の小さな野原にある木造の学校で、校庭の真ん中には桜の樹があり春には谷間を桜色に彩った。廊下にはヤマメの泳ぐガラスの水槽があった。まるで「ぐりとぐら」の絵本に出てきそうな小学校だった。ダムの建設で廃校が決まると、あっという間に校舎は取り壊され、校庭跡はダム用の建築素材、土が盛られ土砂置き場になった。僕ら家族の野原小学校の思い出は無残な姿に変容した。それでも僕は家族とその土の盛られた場所の河原でテントを張り、野宿した。夜には谷の奥で鹿の声が響き、闇に眼が光った。

その後、いよいよ五木村の真ん中にある木造の小学校も同じ運命になり、小さなお別れイベントの後、取り壊された。こういう感傷的な思い出は、ダムなどの公共工事にはつきものなのだが、ただ五木村の場合、そうして感傷に浸っている時間と並行して、改めて川辺川ダムの建設の是非が問われる事態になった。球磨川漁協の利権争い、土地ころがし、建設省の説明資料の偽装が報道され、逮捕者も出た…県民説明会が何度も開催され、会場では怒号が飛び交う。当時の県知事が話を始めると、舞台前に陣取ったダム推進派、動員されたオヤジたちの怒号が知事の声をかき消すのだ。しかし彼らが騒げば騒ぐほどダム建設の是非の関心は高まり、建設計画は混迷を深めた。

そして、まさかの「ダム建設中止宣言」。
翌日、県庁には五木村の村民が押しかけ「今更、話をひっくり返してどうするんじゃい!」と知事に怒声を飛ばす姿がニュースでチラリと流された。結果、ダムは建設されなかったが、すでに村民の住まいの移転は終わり、山間の地に新興住宅地、モダンな作りの村が建設され始めた。熊本県は地域振興の名のもとに村に莫大な迷惑料を支払ったのだ。ふもとの相良村からいっきに駆け上がる広い道路。橋が何本も架けられ、温泉館、物産館が建設された。谷間に架けられた橋からは、ゆるキャラの黒い着ぐるみが、何度もバンジーで飛び降り、笑いを誘った。(僕はこのゆるキャラが大嫌いなのだ)
不思議な光景。ダムの建設で水が満たされるはずの空間には、今も空虚が漂っている。すでに昔の五木村の姿はどこにもない。空虚の中に沈んだのだ。干上がったダム底の上に、新興住宅地ができた光景が今の五木村の姿なのだ。観光客は何を求めて村にやってくるだろうのか?藁ぶきの屋根の懐かしい日本の原風景。ダムに沈んだ、村の跡地の見学。ダム問題でほんろうされた村への同情の想い…。道の駅の前に立ち、恐る恐る下を見下ろしても、ダム一杯分の空虚感が漂い、何の景色も感動もわかないのだ。

更に混迷。今夏、県知事の唐突な「穴あきダム建設」宣言。彼は住民にヒアリングせずに建設決定を断行、村にポンと5億円、地域振興費の名目でお金を渡し、翌日、東京で建設大臣と握手をした。電光石火の出来レース、彼には珍しい早業だ。最近、また五木村に地域振興費を上乗せすると言い出した。一度建設中止をしてから数年、今日までに球磨川流域に遊水地などの処置を電光石火の独断で建設して居れば、水害の被害も少なく復興費も安くついたはずなのに。

僕が気になるのは熊本県だけでない。五木村の対応も気になる。今回のダム建設再開について五木村として意見の発表を聞いたことがない。ダムについて賛成なのか、反対なのか。卑怯なのは、反対の意見を住民個人に発言させておきながら、村会議員などの公人が公にダムについての意見を一切発言する事を聞いた事がない。つまり、賛成にしても反対にしても批判されるし、そもそも村会議員の副業は建設関係が多いのでダムについての意見は禁句。ダム建設に翻弄され、迷惑、被害を受けたと言ってあいまいにしておれば、責任を負わなくていい。ダム建設に揺らぐ五木村について、同情する人は居ても、五木村のこれまでの地域振興の失敗を批判する人は居ないのだ。これまで村内に無駄な橋や道がどれだけ造られたのか。砂防ダムの数は数えきれないしアッと言う間にそのダムは土砂で埋まり、その砂防ダムの上にダムを造る。そのダムまでの作業道も山を崩し作らないとダメなのだ。

「地域振興」っていったい何なのかと思う。フライフィッシングの聖地ともてはやされた梶原川と本流の出会いの橋の下の流れは何度も工事され、岩場も消え、かっての川の精気はなくなった。釣り人の姿もあまり見ない。ヤマメ小屋にも人影はない。岸から見て見た目はきれいだが、昔の梶原川ではなくなったのだ。温泉館の開設当時に、ヤマメ釣りのコーナーがあり、丁寧に魚の生態や釣りの仕組みや名人の竿の展示、津留崎さんの写真集のコーナーがあった。そういう資料を見て、川の生態系や自然の価値が理解できるのだ。今は意味不明のトラクターのおもちゃの展示がある。村の人は「そもそも自然に関心がない」のではないか。立派なキャンプ場の建設の前に、宿泊客向けの清流を巡回、体験できる川の小道の整備くらいはできたはずだが。そんな設備の建設では、儲からないからやらないように僕には見えるのだ。

宮崎の綾町のような取り組みが出来ていれば、村の応援団がすでに組織出来ていたのではないかとも思う。五木村ならではの森林セラピーなど面白い取り組みができていたろうに。みんなの意見でお互いの頭が耕されるのだ。単なるイベント屋、広告屋に高いギャラを払わされては、何も残らない。その繰り返しではなかったか。特産品についても同じ。道の駅の3割程度しか村で作られたお土産品はない。裏をひっくり返すと熊本市内どころか他県のお菓子もある。おしゃれで、今風のお菓子は不要なのだ。来る人は、昔の原風景を求めているのだから、ぜんぶ、不ぞろいのお菓子、食品でいいではないかと思う。村で一番おいしいのは原木椎茸、手作り豆腐などで、袋に入れただけの野菜が完売しているではないか。「くねぶ」という果実?を数年前から売り出しているけど、村内でその果実が実った景色を僕は見たことがない。せっかくだから、どんどん「くねぶ」を植生し、村を金色の果実が実る景色で彩るといいのに残念だ。金余り、どうしても格好つけたいから今風のレシピの料理、お菓子を販売しても、また代理店に企画料をふんだくられるだけ。採りたて新鮮な野菜セットだけでも売れるはず。お金をかけずに、自分たちで考えた方が、失敗しても自分たちの為になるのだ。取り巻きの連中はお金をもらえるから、村の悪口は一切言わない。おだてられ、みこしに担がれ、また「地域振興」とやらにお金をばらまく村の姿はあわれでもある。

テレビで北海道のある田舎の町の取り組みが紹介されていた。その町は、少子化などで里山に残された耕作放棄地を使い、町のみんなで広大な「ビオトープ」を作った。敷地内にはたんぼがあり、春にはみんなで田植え。手作りの小川が流れ、川には魚が増え、トンボが飛び交い、野鳥が帰ってきたそうだ。住民がみんなで石を積みあげ、そのビオトープが完成するまでに20年かかったそうだ。
完成まで20年…お金をかければ数年で完成するだろうが、見方を変えればその町の住人はたっぷり20年、ビオトープ作りを楽しんだのだ。そしてその町に関わった人数は数えきれないだろう。

熊本県も村も又、五木村の地域振興案をテーマにコンぺでもするのだろう。
広告代理店、テレビ局、企画会社、コンサル軍団がどっと村に押し寄せるだろう。見積もりには企画費、イベント料など、いろいろな項目に金額が提示されるのだろう。村民は頭を使わずに、よかろうと思う企画案をお金で選ぶのだろう。嗚呼、またこれから、空虚の空間にダムが完成し、いよいよ本当の水で満水になるまで、どのくらいの時間が残されているのか。

一度、費用はゼロ円で村の地域振興案のコンペをしたらどうかとも思う。
僕は熊本に居ながら、北海道のビオトープの夢を見る。

村の唯一の景勝地「大滝」実はこの滝の真横に鉄製の階段が設置してあり、景観が台無しなのだけど村人は気が付かない。