面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

矢岳神社に行く

国見岳の事を調べているうちに石の宗教について関心が高まり、隣町の天草市矢岳神社に行った。折角の日曜なのに用事があり、動けるのは昼前からだったが車で1時間ちょっとで行けるのだ。白嶽の山頂近くの湿地帯にトンボを探すのも楽しいし、白嶽の巨石群にも改めて興味が出て来た。五家荘地区の国見岳の歴史を調べて行くうちに、巨岩を山の神と信仰し、太陽の恵みに感謝しながら、日々を自然とともに生きる、古代の人の生き方を想うようになった。これで「おかしく」なった僕の心も少しは落ち着くかもしれんと、山の息づかい、森の空気を吸いに行ったのだ。そもそも僕のような性格だと、古代の時代でも厄介な奴だったとは思うけど。

山頂近くの湿地帯は最近の台風で、荒れ放題だった。周遊できる散策路も、道が分からないほど草ぼうぼう。長靴を履いて正解だった。この湿地帯は日本最小、全長3センチ程度のとんぼ「はっちょうとんぼ」が生息していると有名で、道の端々に、トンボを取ったらダメ、撮影も湿地に入り込まないようにと、警告板が設置されているが、この荒れ放題の景色を見な。とても自然を保持する気はないのに、外部から指摘され、しぶしぶ警告版を木にくくったのがよく分かる。管理も町から民間に委託されるようになったのだ。田舎に住んでいる人々というのと自然が好きという人とは、全然違う。まぁ、こんな荒地には当分、誰も来ないだろうから、僕にとっては幸いなのだがね。プライベート湿地とでもいおうか。
「はっちょうとんぼ」は居なかったが、赤とんぼ達が、写真を撮ってくれとポーズを付けて僕を何匹も追いかけて来る。こんなにとんぼに好かれたのは初めてだ。

で、帰りに久々に矢岳神社に向かう。雑木林の向こう。蜘蛛の巣をかき分け参道を登ると岩の間に神社の本殿が見えてくる。岩にはシダ類がからみつき、独特の雰囲気がある。また、神社から更に崩れた石の階段をたどると巨石群が出て来る。このスペースもネットとかでパワースポットとして多少話題になったので、木のベンチが設置してあるが朽ち果て、人影もない。草ぼうぼうの荒地と化している。まず虫が嫌いな人はいかん方がいい。耳の周りをブヨがうるさく付きまとう。いろいろ「いわくつきの説明版」が設置してあるし、ネットではもっと詳しく、いわれや石の方角などがなんとか、いろいろ書かれてあるが、疑わしいのは書いた人の名前が書かれていない事。それなのに、立派な説明板なのだ。この地区の教育委員会とか郷土史家の名が記されていればいいのだが署名がない。(つまり責任が持てない放言と断言す)

湿地と同じで、本当は石がどうの、誰もそんな事どうでもいいのだ。観光客さえ来れば。石にある丸いくぼみも自然に穴が開いただけで、そんな穴に意味を付けても無意味なのだけど…そういわれて見ると何だか秘密めいて見えてくるのが人情か (苦笑)。

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ただ確実に言える事は、ここは古代からの巨岩信仰の場であり、昔は祭礼の場であったのだ。天草東海岸は海に沿い、山がせりあがる地形で、尾根道があり、ピークが白嶽、竜ヶ岳、倉岳と続きその各ピークには神社がある。巨岩信仰を伝えたのは修験道、山伏が尾根伝いに教えを伝えて回ったのだ。この伝承の歴史を専門家に調査してもらえば (それこそ掘るのだ!) もっと貴重な文化財が出てくる可能性が高いと思う。パワースポットなど変な横文字を使うから、山岳信仰の根っこの部分を感じる事ができなくなる。古代シュメール、云々というのはいったい誰が言い出し、証明したのか?

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更に面白いのは、天草はキリスト教が広まった地でもあり、先に各山々には修験者が居て仏教を広めていたはずで、そのバランス関係にも興味がある。更に昔は神仏習合、神も仏も仲良く一緒に住んでいたのであり、明治維新政府の愚行で山の神様 ( 今で言う天皇ではない )と仏様を無理やり引き裂いたわけで、矢岳神社の敷地中にも五重の塔や、仏像が祀られていたはずなのだ。もしくは焼き払われた。

また、矢岳神社から白嶽山頂に向かう道が神社に向かう道よりも石段が広く、整備された跡がある。過去、こんな広い石段を相当な数の人々は登り降りしたのだろう。ネットにもっともらしい言説が書かれ、ひと時「話題」になるのはかまわないが、ただそれだけの「話題」でブームが去れば終わりというのも、もったいない気がする。

何にしても山の精気はいいものだ、本来ならば一人、巨岩群を前に胡坐をかき、瞑想する予定だったのにこうも荒れ果て、草生し、ブヨに蜘蛛の巣が体にまとわりつくのも、もうたまらん。退散!
帰宅し古代に思いを馳せると、夜は眠れなかった。

今の世の中には、神のふりをした「違うもの」が多すぎる。「違うもの」とは何か、それが理解できないのは人間だけなのだ。邪教を信じると何も感じられなくなる。トンボたちはみんな知っている。人間は「違うもの」を見誤っている。

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