面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

僕が京都に行ったわけ・その2

和歌山から新大阪に戻り、新大阪から京都の宿。

次の日は、京都の真ん中、中京区にある京都芸術センター前の喫茶店前田珈琲で、懐かしい友人、キタモトさんと再会した。京都芸術センターは昔の小学校の跡地で、昔ながらの校舎を改造し、演劇や映画、様々な表現者の発表の場所になっている。キタモトさんとの付き合いは長くすでに40年近い時間、京都、熊本の距離を行ったり来たりしている。

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20代も半ば、キタモトさんとは一時期、妙心寺の同じアパートに住んでいたことがあった。訳アリの誰も住み付かないアパートで庭をコの字で囲んだ不思議な造りの二階建て、キタモトさんは4畳半だけの部屋を上下2階とも借りていた。この部屋も木で出来たベットが固定され、実際の生活スペースは畳2畳くらいだった。僕はなぜか離れの部屋を借りていた。

その日暮らしの僕は貧しく、猫(ミー)と二人暮らし、急に熱が出て病院に行くと栄養失調で肋膜炎と診断されたり、ろくな暮らしはしていなかった。

そんな時の中でキタモトさんはせっせと芝居の台本を書き、僕も負けじとうんうんうなりながらも、原稿を殴り書きしていた。

そのアパートが訳ありというのは、時代の産物、大学の学生が編集する新聞社が、違う思想を持った集団の新聞社に追い出され、そのアパートに元の新聞社の編集者が引っ越してきたのだ。内ゲバくらいあったろうが、幸い人が死んだ話は聞かなかった。夜に足音がすると、間違われて鉄パイプで襲撃されるのは嫌だと眠れない時もあったが。

アパートには母屋があったが、日本画の有名な先生が一人、友禅染の下絵を描いていた。お弟子さんが一人いた。林徳男さんという画家だった。日頃は温厚で紳士、丁寧な物言いの先生だが、酒が入ると野性の虎に変わる。そこら中に、孤独の生暖かい息がアルコールとともにまきちらかされる。時に夜な夜な部屋から叫び声が聞こえる。「うおー、うおー、うおー」戦時中は軍の命令で侵略した中国の遺跡の模写の仕事を任され、中国国内を転々としたそうだ。戦争で受けた傷が原因で結婚もできず、先生は家族もなく、戦後は名誉も安定した仕事も捨て筆一本。それが林さんのプライドなのだろう。書きたい絵を書くのというのはこういうことか。孤独に触れるとはこういうことか。

ある夜キタモトさんの部屋で飲んでいると、深夜、庭の奥から人影がして「これから地下に潜る…」という人がぼそぼそ声で挨拶に来て、また庭の奥の暗がりに消えた。奇遇にもその人は熊本出身で「ノダ」と名乗った。今もそのノダさんが気になるが、無事なら彼は70歳近いはず。

京都が「荒れた」のは1975年くらいまでで、メインメンバーは北朝鮮パレスティナに消えた。後は敗残兵ばかり。僕が田舎からやってきた時は、その「荒れた」土地が整理され、新しいビルが建てられ始めた時期になる。それから日本はバブルを迎える。その時代の民度をあらわす、軽薄成金、ケバい、ええカッコしいのデザインのビルが立ち、そんなビルにはそんな民度の連中が住み、やがてバブルが弾けると自分の尻拭いもせずにさっさとビルから逃げ出し次の寄生先に落ち着いた。

田舎育ちの、何の教養もない、恥ずかしいくらい単細胞の僕だが、京都に来たのが5年も早ければ「兵隊にぴったりの性格」としてこき使われ、(本人も望んだろうし…)、相当危ないことをしでかしたり、そそのかされて「つい、やってしまった」ことだろう。

その単細胞さは今も変わらないが、その「単細胞」をほぐし、知らない世界を見せてくれたのは京都で出会った芝居や、映画の世界の友人たちだった。

キタモトさんは60を過ぎてもなお、当時からの劇団「遊劇体」を主宰し、今年の初めに国内の戯曲の最高峰、岸田戯曲賞の最終候補に選ばれていた。岸田戯曲賞についていつも例えて言われるのが、小説の世界での芥川賞と紹介されるが、岸田賞は岸田賞、芥川賞芥川賞、そういう意味ではまだ小説に比べ戯曲は見下ろされている気がしている。

キタモトさんの作品は極めて暗く難解ともいえる作品で、観客も観る力を求められる。とても商業的な作品ではないので、失礼ながら選ばれないだろうとも思っていたが、その予感は当たった。賞に選ばれるには「傾向と対策」が必要で「傾向と対策」をもとにキタモト氏は台本なんて書かないのだ。だから、それでも最終候補に選ばれたということが彼の勲章なのだと思う。京都は今も結構、岸田賞を受賞した作家を輩出している地だが、話を向けると「そんな劇団の名前は知っていても、どんな内容かしらへん、見ようとも思わへん」と返される。まず自分の芝居で頭の中がいっぱいで「よそを、気にしていてもどうしょうもない」わけで、失礼な質問をしてしまった。

10年ぶりに再会しても、いつも通り古いCDの話、幻想小説の話で盛りあがり、別れた。店の前でスマホで写真を撮ろうかと誘ったが、即拒否された。そんな最後の別れでもあるまいし…確かにそうだ、最後の別れでもない。じゃまたと、キタモト氏はニコニコ笑いながら、人ごみに紛れて行った。

 

なんで今更、こんな昔話をブログに書くか。

読まない部屋の本と、机の引き出しを整理したら恥ずかしい台本の下書きが出てきて、読まずに処分したのだけど、底にしまっておいた、昔の遊劇体からの公演の案内のはがき数枚が残った。

同時にアパートの主、林さんの事も僕の記憶によみがえってきた。アパートを出るとき、林さんは本当に名残惜しそうに押し入れの中から大きな板に描かれた、美しい牡丹の画を見せてくれた。そして筆を出し墨で和紙にするすると庭の桔梗を書いて記念に渡してくれた。この思い出は昔話でなく、つい先週の出来事のような気がするのだ。