面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

天草 湯島に行った。


湯島は熊本と長崎の中間、有明海に浮かぶ周囲4キロの小さな島。1637年に起こった島原の乱で、天草のキリシタン教徒が、乱を起こす前に談合したとされ、歴史的には「談合島」とも呼ばれている。

湯島と言う名でありながら湯は出ない。しかし砂浜の向こうは雲仙があり、
掘削したら湯が出るのかもしれない。ひなびた旅館が数件ある。

平地の少ない島の主な産業は漁業であり、港町で猫が多い。数年前から、猫の住む島として口コミで話題となり写真集が発行されたり、有名な写真家が訪問した様子がテレビで報道され更に人気の島となった。

僕が数年前に訪問した時、島は「猫臭かった」…島中、猫の糞尿で臭く、寄って来る猫は風邪をひき、毛並みは荒れ、皮膚病を患っていた子もいた。我が家にも猫が6匹居る。不用意に病気の猫を触ると、うちの家猫にも即感染する。これまでも痛い目に合った。町内の動物病院からしたらお得意さんで、1匹病気になったら次々と、患者猫が増えるサイクルなのだ。

僕が数年前に訪問した時、島は「猫臭かった」…島中、猫の糞尿で臭く、寄って来る猫は風邪をひき、毛並みは荒れ、皮膚病を患っていた子もいた。我が家にも猫が6匹居る。不用意に病気の猫を触ると、うちの家猫にも即感染する。これまでも痛い目に合った。町内の動物病院からしたらお得意さんで、1匹病気になったら次々と、患者猫が増えるサイクルなのだ。

だから当時は、出来るだけ距離を置いて湯島の路地を歩きながら写真を撮った。猫臭いと言うのは、地元の人が野良猫を管理していないのが原因。糞の始末や病気猫の治療など、もちろん去勢、避妊も必要なのだ。しかし当時の島民にとっては、野良猫に誰がそんなことするかい、誰が金出す?という意識だったのだろう。猫が可愛いというなら、観光客の皆しゃん「あんたらが金出せ」とかつぶやいていたのではないか。(これは僕の想像)…小さな島は、いったん病気が流行ると感染も早い。

猫での地域お越しのハードルは、猫の世話を誰が見る、金出す、管理する?見に来る人は気楽でいいよな…という地元民、観光客、お互いのミスマッチの調整なのだ。もちろん行政が調停役として中に入る場合もあるのだろうけど。日本全国、猫での地域興し、このハードルを上手く超えられた所、そうでない所で、猫達の運命は決まる。例えて言えば湯島が大きな「猫カフェ」として成功できるか出来ないかは、お店の近隣の住人と、カフェの店長の腕に係るのだろう。

僕が湯島に上陸後、数年経ち、いろいろな事があったと話を聞く。ある女性が島に上陸、島全体の猫の健康管理などに腕をふるい、これまでの島民の人も意識が変わったのだろう。もちろんマスコミで有名になり人目にさらされ、島民の人々も、どこでもある野良猫への対応から、猫の島の島民の一人として行動を意識せざるを得ない立場になった。島を渡る船は毎回、満員。みんなカメラを持ち写真を撮る。そんな衆人環視の中で、釣った魚をくわえて逃げる猫を捕まえ「この馬鹿猫!」と首を絞め上げたところを写真に撮られ、拡散されたら大変なのだ。朝のワイドショーのショーもないネタになる。

僕が湯島に上陸後、数年経ち、いろいろな事があったと話を聞く。ある女性が島に上陸、島全体の猫の健康管理などに腕をふるい、これまでの島民の人も意識が変わったのだろう。もちろんマスコミで有名になり人目にさらされ、島民の人々も、どこでもある野良猫への対応から、猫の島の島民の一人として行動を意識せざるを得ない立場になった。島を渡る船は毎回、満員。みんなカメラを持ち写真を撮る。そんな衆人環視の中で、釣った魚をくわえて逃げる猫を捕まえ「この馬鹿猫!」と首を絞め上げたところを写真に撮られ、拡散されたら大変なのだ。朝のワイドショーのショーもないネタになる。

こんな偉そうな事を書く僕だが、90歳を超える老母を説得することができない。彼女は今もって玄関で餌をねだる外猫には、夕食の残りのコロッケだの、きくらげだの、黄色い漬物、魚の骨…皿に大盛り、置いたままにしている。(昔はこうだったと、言い張る)。母に猫の治療費、餌代を教えたら卒倒するだろう。

今回の湯島上陸は猫に会うのと別に理由がある。少し前のNHKの番組「歴史探偵」で「天草の乱」が放送され、新事実とやらが大げさに放送されたのだ。新事実とやらは、天草の乱に参加した農民を、関ヶ原の戦いで敗退、お家取つぶしになった切支丹大名「小西行長」の家臣の残党が武装訓練したという事なのだ。もともと天草は小西行長の領地だった。その家臣の息子が「天草四郎」なのだ。乱の総勢、約3万。確かに軍師・司令部がなければいくら原城に立てこもっても、取り囲まれた全国各地の大名、数万の軍勢に勝ち目はない。乱の始めは簡単に攻略できると城の石垣をよじ登る幕府軍も痛い目にあう。僕の大嫌いな宮本武蔵も農民から石を落とされ、足にけがしてほうほうの体で熊本に逃げ帰った。(※彼の武術の腕そんなもの、なんの実力もない)しかし、時間が経つと、金に武器にも余裕のある幕府軍が押し返し、兵糧攻めで立てこもる一揆軍を責め立てる。

NHKの番組では立てこもる3万のうち、1万が政府の説得に応じ城を降りたとの事。その1万は天草の乱の参加に本意ではなく、やむなく参加した人々もいたという。そんなことは何も新発見ではない。変な言い回しをするNHK。長崎、天草には天草の乱に参加したくても、参加出来なかった人が1万以上は居たであろうに。原城からは何本も手紙を括り付けた矢が放たれ、その矢に括り付けた農民の「平和平等を願う、農民を殺すな」という数えきれない手紙を公表して欲しい。城を降りた1万の人も思いは同じだったはずだ。湯島からはいったい、どのくらいの人々が天草の乱に参加したのだろうか。

湯島の真ん中には「諏訪神社」が祀られてある。そう、諏訪神社の総本社は長野の諏訪神社なのだ。神社の由来、祀神は「タテミナカタノカミ」と書かれてある。僕は今回、湯島の諏訪神社の祀る神を確かめに来たのだ。山深い長野の諏訪神社(総本社)から山の神が海を越えはるばる、天草の湯島(湯島支社)までやって来たなんて。いったいだれが、伝えて来たのか。これぞ、NHKの歴史探偵のテーマになりゃしないか。だいたい天草島には諏訪神社が多すぎる。山伏が海を渡ったのか。そうして苔むした階段を登ると、そこには祭神の化身、猫が居た。僕は彼女の名をスワちゃんと命名した。

スワちゃんも僕の怪しい気配に何を感じたのか、甘え、ひたすら後をついてくる。一瞬、我が家の猫にしようかとも思うが、帰りの船で猫を抱いていると誘拐犯(写真を撮られ拡散)となり、いらぬ疑義を受けるので今回は泣く泣く別れを告げた。

歴史の謎、ぬかるみにはまると、なかなか抜け出せない。結果、何が本当か嘘か、分からないのだ。そのぬかるみにスーッと沈むのが気持ちよい。両手をばたつかせ往生際悪く沈むのもいい。湯島や天草の諏訪神社の伝承の流れは長崎の諏訪神社(おくんちさん)にあるのだろう。当時は長崎と熊本天草は同じ文化圏であり長崎の諏訪神社の流れで、天草の津々浦々の諏訪神社が建立されたのではないかと想像するが。長崎の諏訪神社は長野の諏訪神社と何がきっかけで伝わったか不明。長崎の諏訪神社宮司に聞いたらそう答えた。

 

※何が嘘か本当か分からないにしても、度を越えた作り話、嘘は歴史の「害毒」となる。宮本武蔵の本性は沼田家記 (公文書) に書かれてある。また天草本渡市のキリシタン資料館に展示してある天草四郎の絵 (作・鶴田一郎)は漫画。間違ったイメージを拡散する。数万のキリシタン信徒が戦い亡くなった、血だらけの戦の総大将があんな顔しているわけでない。お祭りのポスターと勘違いしてはいけない。天草四郎の本当の美しさを想像してみたらよい。貧しい信徒が編んだ粗末な衣装、すれた藁の草履、髪も肌も栄養不足で荒れていたろう。小さな背にみんなの期待を一身に背負い、どこにでもいる10代のニキビだらけの青年だったろうに。戦の最後、彼の首は撥ねられ、人質になった母と妹はその首を見て、本人と認め泣き崩れた。