面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

般若心経・半ニャー心境

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我が家は浄土真宗の檀家なのだ。父の月命日に、お寺の息子がお経を唱えに来てくれた。( 彼は、保育園の経営で頭がいっぱいなのだけど )。もともと宗教について考えたことのない自分としては彼に聞きかじりの質問をした。ここ数年、読み始めた般若心経と、浄土真宗の教えの違いについて。単純に言えば、浄土真宗親鸞さんの教えで、あんたの現世、あの世のことは親鸞さんにまかせておきなさいとのことだった。南無阿弥陀仏、波阿弥陀仏。だいたい親鸞さんなんて俺、知らないし。実は辞めたいのだ、浄土真宗なんて。墓も戒名もいらにゃい。海岸で石を2個拾い、裏山に1個、京都の山に1個置いておいてください。これが僕の墓の代わりでよか。

 

般若心経とは、ネットによれば、天台宗真言宗臨済宗曹洞宗・浄土宗などで広く読まれるお経とのこと。つまり般若心経とは宗派問わず、「何か(死について)あると、何か心の支えになるだろう」と唱えておけば、心しずまる効果が期待できるお経の事のようだ。実際、僕も生死をさまよった後、関心をもって、実際、般若心経のことについて調べてみたくなった。(自分さえよければよい、のだ)本屋、アマゾンで検索するに、あるわあるわ、般若心経。

 

残念なことに、ほとんどの本が単なる解説本で、悩ましい、迷える子羊どもの心の平定に、ほれ一冊買いなと、小銭を稼ごうという、俺はあんたより偉いんだぞという、賢い子羊の著作が多い。そもそも相手は悩み迷って不安がっているわけだし、本を売るのは簡単、そもそも難解と言われる般若心経、答えなんてない。その難解さを更に優しく馬鹿でも分かるように諭せば本は売れる(かもしれない)。零細企業のオヤジをだます啓蒙ビジネス本と何ら変わりはない。

 

そんな本数冊読んだが意味なし。お金、時間のムダ。般若心経の解説本の解説をしても時間のムダだし、捨てることにする。(詩人の伊藤ひろみ様…期待外れでした)

 

もちろん般若心経の原本は岩波の中村元先生の右に出るものはない。中村氏の般若心経は何も解説なんてない、訳しただけ、「あとは自分で考えなはれ」「彼岸に一人でいきなはれ」というだけでシンプルで素晴らしい。その本に次いで最近読んだ、作家の水上勉氏の「般若心経」の本は良かった。

 水上氏は幼いころ、家が貧しく京都のお寺の小僧に出され、そのお寺で般若心経のことを学んだ。

 そのお寺の湖海玄昌先生曰く「空とはなーんもないちゅうことや…あると思うのも、見えると思うのも、こっち次第。生まれてすぐ眼がつぶれておったら、お月さまもお陽さまもこの世にはないいやぞ」

眼の見えない人、耳の聞こえない人には般若心経の世界が分からない…幼い水上氏は悩んだ、その本を読んだ僕も悩んだ。薄い文庫本がページをいつまで経っても、めくることができない。般若心経の有名な文章「色即是空、空即是色」の解釈にも水上氏は悩む。そうしているうちに水上氏に重度の障害を持った娘が生まれ、彼女は湖海先生のように世界が理解できない。遠足の時、歩けない彼女は足元の百合の花を描いた。その百合の花一輪に世界を見たと氏は思ったそうだ。

現実と理想の差に水上氏は悩みに悩み、結果、水上氏の般若心経の現世の解説は、のたうちながら悩みに悩むことを結果とする。

僕はぼんやり、般若心経の「空」という解釈をどうとるかで、自分の現世の悩みの沼からの救いとなる気がする。現実の中に空く丸い穴。

 

猫には「言葉がない」。生という言葉も、死という言葉もない。だから彼らには生も死も存在せず、もちろん彼らは死は一切怖くない。存在という言葉もないからそもそも彼らは空なのだ、無なのだ。無には埃も積み重なることはない。無には老化もなにもない。飢えはあるが、生きる悩みもない。

 

半ニャー心経、自分も半分猫人間。半ニヤー心境でいたいと思う。キリストはんの教えは現実の中にある。般若心経、あんな難しい漢字の経文を誰が書いたのか?ひらがなを学ぶ前に、なんであんな難しい字を書けるのだろうか?読めるのだろうか?なんであのリズムでみんな合唱するねん?その謎は永遠。

 

猫の無の境地で、中村先生の岩波の般若心経を読むと、少しは気が楽になる、こころが平和になる。人間としての存在で般若心経を読むと、中身を読み間違え、無の境地が有の境地に代わり、自分に都合の良い解釈をはじめ、自分だけ助かろうという心境となるのだ。僕は結構、猫に学ぶことが多いのだ。