面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

縄文考古館の想い出

縄文にふれたのは確か5年前、無印の本屋で縄文土器土偶の写真集と出会ってからだ。よく言われるように、その縄文本は僕を呼んだのだ。縄文ファンがよく言うように、それは雷に打たれたような衝撃…ではないが、僕はその写真集を見て驚き、感動し、縄文の電波が脳をじわーッと浸食した。こんな造形があるなんて、ったく、これまでの自分の感覚と違う縄文の完璧の感性に完敗した。手も足も出ない。どうやっても僕からは出てこない美しさ、生命力が、この茶色の土の塊の造形にある。悔しい。縄文に土下座である。それからというもの、さまざまな本、写真集を買い求め読んだら読むほど、縄文の渦は深く、僕をその網目の土器の中に巻き込み、身動きさせてはくれない。
縄文時代は1万年…その時間の中で、彼らは生まれ、暮らし、死に、埋葬された。血はつながらなくても、同じ部族で長い間暮らした。墓の骨を掘り、みんな同じ墓地に埋葬された。本を何冊読んでも縄文の時間は濃い。

6月、念願の土器土偶に会いに熊本を出た。仕事なぞほっておいた。最初で最後のチャンスかもしれぬ。熊本から京都へ。翌日早い新幹線で名古屋。名古屋から特急信濃塩尻経由茅野市へ。茅野市に着いたのは午前11時頃。案内所に聞くと「尖り石考古館」へ行くバスは昼過ぎ発とのことで、タクシーで考古館に向かう。

縄文考古館では、縄文のビーナス、仮面のビーナスという国宝の土偶2体が見れる。フラッシュ禁止だが、撮影はOKとの事。ガラスの映りを防ぐフィルターをレンズに着け、写真を撮る。満願。何も言う事はない。

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生で展示されている土器を上からのぞき、ひたすら匂いを嗅ぐ。笑う土器の破片たち。何も言う事はない。縄文電波が脳に来る。3時間は居た。

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◆胸のきらめきは雲母。

縄文の大地から褐色の土を集め、練り、固め、造形していく。何度も何度も、縄文人の手の平の土の塊から、魂の形が練り上げられていく。顔が書かれ、耳にはピアスの穴、肩は丸くなだらか何度も磨き上げられ、立ち上がる。葬儀に集まった仲間はこの像を見て、どんな顔をしたのだろう。泣いたか、微笑んだか?抱き合ったか?像の胸のきらめきは雲母。幼い姉妹が、近くの山で見つけた雲母を、夜空の星に見立てて土偶作りの作家のおじさんにに手渡したのかな…おじさんはいいアイデァだと微笑んだのだろうな…いろいろ縄文の空に思いをはせる。この部族のみんなは貧しくても幸せ。死者は土に還り、この像も埋葬され、長い眠りについた。大地に眠る魂1万年。僕もこうして、ほんの一瞬、一緒に居ります。

次のバスまで時間があるので、縄文の住居跡をうろつく。頭上には青い空、白い雲。考古館の裏の階段で「ハクセキレイ」の死体を見つける。彼(彼女)は、僕の頭上の空から僕の足元に墜ちて来た。微かに開いた、薄いまぶたの奥の瞳には空が映っていた。僕はマスクをとり、亡骸を包み草むらの葉の影にそっと隠した。

今、このひと時が縄文の空と1万年の時空を超えて繋がっている。茅で葺いた住居跡の写真を撮ると、偶然にも、風に揺られて樹の小枝同士が手をつないでいるような写真が撮れた。

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周辺を歩き「尖石」の本尊を見つける。この地区の名前の起源なのだ。
僕は生きている残りの時間、「ハクセキレイ」の事を考え続けなければ、ならない。