面白半分 猫半分 猫日誌

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。海の見える家に住む60過ぎのオヤジ。熊本在住。

残念な石仏

 

僕は日本石仏協会の会員なのだ。大げさな名称だけど、会費さえ払えば会員になれる。会員になれたかといって石仏のバッチが送られてくるわけでもない。本当の会員は歩いている途中に草生す石仏と目があえば、どれだけ忙しくても、その場で座り込み、石仏に向かい合い、にんまり、優しく微笑みあう事が会員の資格と僕は信じている。さらにその石仏にかかる雑草を書き上げ、ほこりをはたき落とし、お顔をきれいにし、その仏像の肩を優しくなぜる行為を行う人は、特別会員として認定したい。仏像の横に刻まれた文字を指先で辿り、その時代に思いを馳せたい…のが本当の石仏会員の条件と信じたい。

熊本にも石仏が多々あるのだが、その中でも岩に刻まれた摩崖仏があり、休みの日には調べれるだけの摩崖仏を見て回っていた。

仏像は6世紀の中頃(538年)前後、大陸からの仏教の伝来とともに、日本にやって来た。(百済からの釈迦像)その基本スタイルは今もほとんど変わっていない。サイズは千差万別。奈良の大仏のように巨大なサイズから、爪の先位の大きさの携帯用の仏様も居る。

仏教の教え…つまり、人々の悩み苦しみを仏様が救済してくれるのが教えの根幹なのだろうが、仏様も祈りの対象なのだから、それなりに美しさが求められる。いろんな型はあるにしても、その表情はみんなが安心できるように、柔らかく微笑み、洗練された顔立ちになっている。

仏像の制作者もどんどん要求に応えるべく、研鑽に励み「美を求め」ノミをふるい、技を競い合ったのだろう。法隆寺に行くと国宝の仏像がずらりガラスのケースに展示され、金箔と共に輝き、見学者をひと時、魅了する。僕もそのような国宝級の仏像や雑誌をたくさん見たけど、もちろん、そんな仏像のように美しいリアルな人は居ない。当初は素朴な素材、粗削りな姿だったのが、信仰が深まるにつれ、人間の欲望が付加されると「金」が塗られ、手にはいろんなものを持ち「お金まみれのお姿」になられ、荘厳な社殿の中の一番奥で微笑んでおられるのだ。超絶加工の小細工で飾られたそんなお姿に参拝する人はため息をついたのだろう。法隆寺の国宝の仏像もキンキラキンすぎて信仰心のない僕はそんな仏像を見て何の感動も感じなかった。当然、仏師でもないし、その技巧にも何の感動もなかった。

石仏を刻むのも木彫と基本は同じだろうが、木彫りのような小細工は出来ない。石仏はそもそも野ざらしが条件なので、雨に風に打たれ風化していく中で石仏の顔は苔むし、いい顔になるのだろう。また、摩崖仏となると更に体力と気力が必要だろう、九州では大分の摩崖仏が有名で自然の崖に巨大な仏像が彫られ祀られてあるのだが、熊本は大分に比べ数も大きさも劣る。

ただ、野ざらしの石仏の中には、ちょいとデザイン的に残念な石仏もあり、その中でも有名なのが長野県諏訪の万治の石仏。(2023年2月18日撮影)

 

 

どうしても下手というか残念というか‥せめての誉め言葉でいうと「とても親しみやすい」デザインの仏像なのだ。岡本太郎氏がカメラを持つ手を震わせながら絶賛したというくらい、ユニークで残念な石仏。去年諏訪神社・春宮を訪問時に、直接出会う事が出来た。大きな丸い石像の体を時計回りに3回周り、願い事を唱えるという風習もあり、僕が訪問時にも家族連れが神妙な顔をしてずらずらと3周していた。もちろん僕も、願い事を唱えないまま3周した。

みんなの目指す仏様の顔は美しい、つややかで、ふくよかな、めざせ極楽!なのだけど。僕らの本当の姿はこんな顔。万治の石仏まではいかなくても、みんな似たり寄ったりの人の顔ではないか。

文章を書くことも例えて言えば、コツコツ、下手な石を削る事。金ぴかの仏像を目指してはいけない。自分は「読む方」でないから「書く方」としての作業として、下手な石を刻むつもりで書かないとダメなんだと思う。そんな下手な文章を誰が読むか?と言われても、かまわないから書くだけなのだ。彫っている時の自分の顔が、美しい仏様のようだと勘違いしてはいけない。

ネットで検索するに、熊本の県南の氷川町に摩崖仏があることを知った。それまで検索しても中々出てこなかったが、ふぃに、パソコンに出て来た。道がとても分かりにくく、田畑の間の小道を車で何とか通り抜け、小さな集落の奥の小道の横、切り通された崖の道に一人、等身大の石仏様が彫られてあった。横は、古びた民家と農機具を収納する崩落寸前の車庫があるが、辺りは人の気配もない。

 

(2024年3月20日撮影)

 

誰が何時頃、彫ったのか?なんとも残念な石仏様。万治の石仏のように、巨大で愛嬌があり、そこまで存在感があると救いがあるが、氷川の石仏は等身大で、人間の姿、そのまま、仏様にまで昇華していないべたべた感がある。笑っているのか、泣いているのか?教えてくれる人も居なかったのだろうか自己流で作者は石に向かった。彫っても彫っても、うまく行かない…それでも彫り続けた…。

 

暑さのせいにしても仕方がない。脳のダメージのせいにしても仕方がない。僕はこれまで65年近く、生きてきたわけだけど、これまた長い間、うつうつ考え悩んできたことが頭の中に浮かび上がり、自分で自分を追い詰め始めている。本来、頭に浮かんできた悩みの解決法はないのだ。解決法がないから、消しても消しても、浮かんできて、自分を悩ませる。NHKラジオで「ひきこもりらじお」と言う番組があるかど、聞いていて思うが、寄せられる悩みには解決法はないと思う。生活の悩みの解決法はあるだろうけど。

 

最近、不意にこんな自分の意識に言葉が浮かんできた。「自分はそもそも、人が嫌いなのだ。」「人から好かれようと思わなくてもいい」「そんな自分を、自分は嫌いなのだ。」「自分から好かれようと思わなくていい。」「自分を自分が敢えて好きになる必要はない」

 

叩いても、叩いても、湧きだしてくる思い…。
妬み、そねみ、悔やみ。

 

人知れず、里山の奥の荒れた場所の岩に一人居る。花を活け、お参りする人も居なくなった。石仏思うに…今頃になって、変な奴がカメラ片手にやってきたな。

 

残念な仏像が、残念な奴…と僕を慰めてくれたのか。