面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

なにが「電通」「博報堂」だい。(その1)

なにが「電通」「博報堂」だい「ひとりだったら負けねえぞ」
これは僕が敬愛する作家「中島らも氏」の名言なのだ。

中島らも氏は作家として有名になる前に、関西の小さな広告代理店で働いていた。(広告屋の前は印刷屋)だった。僕は若かりし頃、中島らも氏の活動をリアルタイムで体験した。関西のタウン誌のはしり「プレイガイドジャーナル」を購読し、時々、変な広告が掲載されているのに気が付いた。知る人ぞ知る「カネテツデリカフーズ」の雑誌広告で、変なキャラ…キューピーマヨネーズのキューピーの親子が鉢巻きをしてなんとも間の抜けた会話をするのだ。よくこんな広告を出しているなぁと不思議がってみていた。そのシュールな広告の連載でカネテツの竹輪が売れているのか、いないのか、関西の変な奴等から注目を浴びていた。(と、思う)。そんな「カネテツ」の広告を一手に引き受けていたのが中島らも氏なのだ。当時から広告業界の主は当然「電通」だった。キンチョールや、サントリーなど大企業の話題のコマーシャルを所属のコピーライターや、ディレクターが連発していた。そんな、大きな時代の流れの中で、ほんの数人の零細広告代理店で働く「らも氏」は悪戦苦闘を続けていた。

そんな氏のエッセイ集の中で出てきたのが、
なにが「電通」「博報堂」だい、「ひとりだったら負けねえぞ」という名言なのだ。

氏曰く、大きな広告のコンペがあると電通など大手は数件の下請けの企画会社を呼び出し、各会社に企画書を出させる。その中で一番いい企画を選んで、電通はコンペに参加するのだ。仕事がとれたら大きい金額になるので、各社精一杯、良いアイデァを出し合う。当然企画費等、電通が払うわけがない、採用されなければそれで終わりと言うハードな世界なのだ。
そして提案された企画が採用されたら、その金額の中から例えば半分の額を電通は手に入れ、残りの半分を企画した会社が得ることになるが、更に、悲惨なのは下請けの会社に孫請けの会社があり、その半分の金額を下請けが取り、その半分を孫請けが受けるという、広告代理店と言うのは、徹底した「ピンハネ代理業」で上流れの大会社は書類を出すだけで、なぁんもしないのだ。ピン、ピン、ピン、ピン…。

この弱肉強食の構造は熊本でもよく見られた光景だった。実際のデザイン費100万が50万、その下請けのデザイン会社が25万で受け、その下の会社が10万で受け、その下の個人のデザイナーが5万で仕事を受け徹夜で何日も仕事をしている。写真も同じ、どんどん下に降りて行き、最後は個人のカメラマン、カメラウーマンが、1枚数千円で仕事を受ける。しかも遠方の撮影でも交通費は自分で持つ。更に残酷なのはデジカメの時代になり「この前撮ったあの写真のデータ送ってくんない?」と言われ、いったんそのデータを代理店に送りようなものなら、使いまわされ、いつしかその素材はフリー素材のように擦り切れる。編集ライターも同じようなもの。知人のカメラマンが嘆いていたけど雑誌用の料理の写真がいつの間にか、高速道路で飯を食おうとフードコートの椅子に座ると、自分が撮影した料理の写真が料理の案内板として大きく電飾されていたそうだ。そういう悪知恵のピラミッドの頂点に「電通」や「博報堂」が君臨しているのだ。

何でこんなことを知っているのか?というと、僕もそんな業界でわびしい飯を食っていたからなのだ。30過ぎて、京都でフリーターをしていた僕はある日突然、自分の才能の枯渇に気が付き…というか才能なんて最初からなかった…事に気が付き、故郷熊本に帰ることにした。それまでの生活から生まれて初めての社会人を目指し、求人案内誌をめくり某会社の面接を受けた。もちろんネクタイの締めかたなぞ、分からず、ホック式のネクタイをシャツに挟んで面接に臨んだ。靴は親父の革靴を借りた。その会社は社員数10名にも満たない、零細広告代理店だった。もともとは中堅の広告代理店の熊本支社だったが、どうせだめだろうからと無理やり独立させられ、本社からリストラされたおじさんのふきだまりの会社だった。

面接をしてくれたのが、業界ではプチ有名な、アルコ―ル漬けの「あぶない社長」だった。
氏は震える手で湯呑を持ち上げ、懐から扇子を出し暑い暑いとこぼしながら扇子で自分の顔を扇いだ。僕の履歴書を見て、「ふぬ?君は今33歳か?うちは求人の条件としては30歳くらいまでと書いておったが」と言ったが、僕はすかさず「30歳くらいまでと言うのは33歳も含まれるかと思ったのですが、と言い返した。氏は「確かにそう言われればそうだよな。暑い暑い」とまた扇子をバタバタして、額の汗を扇いだ。しばらく考え「じゃ、明日から来てくれるかな?」と言ったが「(何か悪い予感) そう、急に言われましても、来週からはだめですか?」と僕は言い返した。「確かに、そう急に言われても大変だな、そりゃそうだな」と変に納得し、湯呑を持った震える左手の手首を右手でぐっとつかみ、ぐいとお茶を飲みほした。

会社に入ってから連日連夜、飲みに行こうと誘われ、1時間ほどで社長の膝の横には焼酎の空のビンが数本転がり、焼酎を飲むと、普段は震える手がぴたりと止まるのが分り、彼はマジ病気だと確信した。朝、会社のビルの前の自動販売機の前でぶつぶつ不満気に何かつぶやいている姿を目撃したが、会社に遅れて出て来て一番に、コカコーラの営業所に100円入れても商品が出てこないというクレームの電話をかけ始めたのに驚いた。「コカ・コーラたるもの100円入れて商品が出てこないとは何事かっ!」と電話口で説教を始めていた。しばらくしてビルのオーナーのおじいさんが、のこのこやってきて社長の手のひらに100円玉を乗せて帰って行った。

あまりにも物忘れが激しいので、忘れないようにメモを張っていたが、「君、あれどうなった?と聞き出したので」「昨日メモを、机に張っていたじゃないですか?」と答えると、「そのメモの場所を忘れた」というので「そのメモの場所を忘れないように、予備に書いたメモを張っていたじゃないですか」と答え、大の大人二人で、社長の机の周りをメモを探してグルグル回るという、反対側のビルの人が何しているのだろうと疑問に思われる不審な動きをして過ごす、日々だった。

憧れ(苦笑)の広告代理店に紛れ込んだのもつかの間、そんな日々が数年続き、僕の仕事は電通に対抗するどころか、夕方4時には仕事を放り投げ飲み屋をはしごする、アルコール漬けの社長の会社の再建だった。