面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

読書列車

1年に1回の造影剤入りの脳のMRIの検査が終わった。検査の2週間前は、夜になると後頭部の奥がじんじん痛み眠れなかった。頭のたんこぶも気になり、もし検査で脳の血管に何か問題があれば、嫌だ、入院、手術とか面倒くさいと思うと余計眠れなかった。そんな時はお守り代わりのパキシルの白い粒に頼らざるを得ない。白い夜明け、普段飲まないパキシルを飲むと、一気に気が楽になり、次の夜も頼りたくなるのだな。そして来る脱力感。パキシルには独特の副作用、人によるが、飲み過ぎると自殺願望が出るという副作用!があり、悪環境、悪循環の暮らしの中でパキシルを飲み続けている人の絶望感はすごいだろう。もともと希望がなくてパキシル飲むのに、副作用が自殺願望とは。

検査の結果、問題なし、ではまた来年という感じなのだが。イケメントップナイフの脳外の先生の問診に頭痛だの神経痛だの、眠れないだの言っても仕方ない。要するに原因は不明なのだから。多少の頭痛があっても仕方ない。何しろ僕の脳の動脈の中には3個のクリップがしっかり挟まっているのだ。もう一度、開頭してその頭痛とやらの原因を一本一本、ピンセットでつまんで探すわけにはいくまい。ただ、健康な脳の人と比較して僕の脳にはハンデがあるのは間違いないのだが。仕事は週に3日。月水金で仕事の日の夜は相当疲れるので、翌日は休みのサイクルのままだ。自由業は何の保証も補償もないが、自由業ゆえに、時間は自由なのだ。その分、デザイナーのイワサキ君には多大な負担がかかるのだけど。

仕事日の片道1時間。できるだけ、本を読むことにしている。これまで「積読」がほとんどだったが、命拾いしたのだからもったいないと「積読」していた本を読み始めた。夢野久作の「ドグラマグラ」…何とか読了。途中最後の数ページ読めなかったが、何とか最後まで読む。奇書で名高いドグラマグラだか、内容はとても面白かった。ただ、もう一度、読むと確かに気が狂う気がする。埴谷雄高「死霊」…これは無理。文体が難解の極致。全然、歯が立たない。友人の杉下氏は、単行本を保持しているらしいが、やはり今は「死霊」が枕になっているそうだ。

今度は太宰治の文庫版の全集だ。若い頃はみんな太宰を読むと「はしか」にかかるようなもんだと、昔、詩人のカミムラ君が言ったが、彼は「はしか」にかからなかったようだ。僕は少しは「はしか」にかかったような気がする。今も完治してないから、今更読み直すのだが。

今回の読み方は、あえて文庫の最終巻から時間を逆に読み直し始めた。太宰は「グッドバイ」という作品の執筆中に心中して作家生活を終わるのだけど、もちろん、突発的に心中するわけはなく、書きかけの作品をそのままにして、死にたくなって死んだ。僕は想像しながら作品を読む。どの作品から、自死を意識したのだろうと。生きる気があるからこそ、作品を書いてきたのだが、自死の場合、彼の脳裏には死ぬまで書いた作品のスケジユールの計算も必要であり、その計算の中で人間失格も書き、間際の短編も書いたのだろう。

今度こそ死のうと決心してからの日々、作品の執筆する時の気持ちはどんな感じだろうか。カウントダウンの日々、胸の高鳴り。最終巻を読んでいると僕の胸も高鳴りしてくるのだ。

 

今年、若かりし頃からの数少ない友人が今回、岸田戯曲賞の候補に選ばれた。候補者の中では一番の高齢だ。僕は彼の最後のチャンスだと思った。60歳は過ぎている。もちろん、彼は自死するはずはないし、今後も演劇活動も続け作品を書き続けるだろう。未来に向けてか、過去に向けてか。

脳に傷がある僕には、時間が余り残されている気がしないのだけど、せめて太宰の胸の高鳴りを感じながら本を読み、時にブログを更新していこうと思うのだ。来年の検査まで。

 

結果、友人の作品は選ばれなかった。