面白半分 猫半分

人としての面白半分な日々と、猫とともに面白半分な日々。熊本在住。頭も半分、おバカさん。

日本習合論の感想の続き。

前回のブログの続き、「日本習合論」の感想の続き。

天草市本渡の諏訪神社に行った。天草では一番、規模が大きめの神社なのだ。境内も綺麗に掃除されていて、そつのない神社のお手本のような神社だった。社務所には大きな日の丸が掲揚されてあり、祝日には国旗を掲揚しましょうなどのポスターが貼ってある。

諏訪神社の総本山は長野県の諏訪神社で、祀られてある神は「建御名方命(たけみなかたのみこと)」であり残念ながら「天照御大神」ではないのだけどね。

 

神仏習合の本をいくつか素人ながら読んでいたら、いつもは冷静沈着そうな研究者の先生が感情的になり「日本書紀」は天照御大神、つまり天皇の都合の良いように作り話が記されてあると断言している記述もある。日本書紀によると、諏訪神社の神は争いに敗れ、長野の山奥、諏訪湖の奥にじっとひっこんでおきますから、どうぞ命だけは許してくだされ、という情けないレッテルが張られた神なのだ。研究者の言うように、そんな情けない神を諏訪神社の檀家、氏子の皆様がこれまで許しているハズはない。

 

僕はそんな山の神を祀る諏訪神社分祀、天草諏訪神社に白々しく日の丸が掲揚されているのに違和感を覚えたのだ。もう1000年以上も前の事だから、日本書紀も神話だし、まぁいいではないかと話を曖昧にしておきましょう、てな感じなのだろうか。諏訪神社に限らず、どこの神社にも日の丸が掲揚されてはいるけど。

 

そしてその諏訪神社の近くにある書店で、(写真) そんな悩ましい中年の僕が内田樹氏の「日本習合論」を買ったのだ。その書店主はミシマ社という出版社の大ファンで、ミシマ社の本を販売するために書店を開き、書棚に並ぶ本は僕のひねくれた趣向と8割被る。この前は、同じくミシマ社の「街角のアナーキズム」とかいう本を買って読んだ。

「日本習合論」で作者の内田氏は、神仏習合は日本の雑種文化、日本文化の本態であると書いた。

 

神仏習合の雑種文化に対し、天皇制で国を1本化したい純粋文化が争いを仕掛けるも、霊対霊の争いで、雑種文化は争わないから、今のようになったのではないかともかかれ、今の時代、少数派が生き残るためには雑種文化を参考にすべしと読者を励ます。

 

それにしても内田氏は疑問に思う。廃仏毀釈になぜ一部の事例を除き、誰も反抗しなかったのか?

 

僕の知る限りでは、廃仏稀釈に反対、反抗したのは一部の民ではなく、全国各地の「一部の民」なのだと思う。その反抗が分断され大きな波にならなかったのは、時代のせいではないか。

 

長野の諏訪神社も大きな反対運動があった。境内の五重の塔や仏像が廃棄されるのを地元の人々は反抗したのだ。京都から担当者が再三、申し入れたのだが反抗は収まらない。ただ当時の城主は勢いのある維新派から、決断を迫れら、これ以上受け入れないと、藩自体の存続に関わると脅されしぶしぶ明治政府の意向に従ったのだ。おそらくそういう反抗は全国で多々あったに違いない。熊本のあちこちの寺でも、僕の地元では八代神宮、釈迦院など廃棄を命じられた仏像が夜に持ち出され、協力してくれる小さなお寺に匿われた話が多々ある。

 

当時は明治維新で国内も大騒動、何がどうやら、当時の藩主は命乞いをせざるを得なくなった。もちろん、一般の民も。国の形の大変動の時期に維新の政府は血走り、何をするのかわからない。そうして不安に満たされた動乱の時代にスッと出されたのが「天皇」新時代のシンボルなのだ。(天皇の政治利用はやめましょうという約束も反故)、みんな明日はどうなるか中国のようになるか、命の危機にさらされたら、何かを信じたいとすがったに違いない。

そりゃあ、地元の氏神さまも大事だけど。

ということで、僕の回答は、やむを得ず、神仏稀釈に心優しい、日本の民は従わざるを得なかったのだ。残念ながら明治政府が樹立され、維新の志士もあっという間に汚職まみれ、それを嘆いた西郷どんは、昔は良かったと西南の役を起こす。悲しくも哀れな共食いの役。

そうこうしているうちに日清、日露戦争天皇陛下は生神様となり、日本人の信仰のシンボルと同化する。靖国(戦争洗脳、特攻隊神社)ができたのは、明治2年。戦時中の宗教界、もちろんキリスト教も戦争賛美、戦争協力者になってしもた。戦争で死んだ魂は故郷に帰らず、仏様の近くにも行けず、靖国の神のもとに無理やり祀られることになった。いつの間にか、諏訪神社の境内にも日露戦争の碑、忠魂碑が建てられ祀られてある。

今や、金まみれの神社庁は神社をランクづけして更に権威を作り利権を貪る。残念ながら現代の日本人のメンタリティは廃仏毀釈の時代から大きく退化したのだと思う。幼形成熟、子供のまま大人になったウーパールーパー

天皇を生き神として祀りあげ、戦争責任も問えず、人類平等と言いながらも今の天皇家に敬語を使う。天皇批判、天皇制の廃止を公言したらマスコミはもちろん、一般の人民から総攻撃を受けるだろう。戦後70年経っても「そのこと」さえ議論できない。まだ、明治維新からのマインドコントロールからは解放されていないのだ。

 

正確に言えは、天皇を神として今も祀りあげるが、今の日本人の本当の神はアメリカ様なのだろう。アメリカ様の言う「アメリカ民主主義」に悩みながら金を貢ぎ、沖縄を差し出し、アメリカ様の言うことを飲まざるを得ない、廃仏稀釈を強制されたお殿様の精神状態と同じ、今の政権、今度はアメリカ様に何を差し出せば良いのだろうか。

 

今も田舎には、道祖神が祀られ花が添えてある景色がある。庶民の神は相変わらず、神仏習合の神であり妖怪であり、石碑に刻まれた文字も読めない程の古い地元だけの神様なのだ。僕の信じる神は靖国だの伊勢神宮だのそんな立派な神様じゃございません。宝くじも当たりませんから。

 

天草は江戸時代に「天草の乱」で当時の政府、全国の大名どもに3万を超える貧しい人々が皆殺しにされた歴史がある。天草の乱で、当時の神社は焼き討ちにあった。神社、お寺は幕府のスパイ、見張り役であり、踏み絵の場所でもあった。平和を願い、皆殺しにされた人々が信仰し心のよりどころにしたのが、キリストではなく、マリア「観音様」だった。ほとんど人がいなくなった天草に入植させられたのが全国の貧しい農民。歴史は本当に残酷なんだなぁ。

 

考える機会となった、内田樹先生の「日本習合論」に感謝…とそんたく、書かないといかんと思いながら、結果、内田先生が「何」を書きたいのか?僕には分からん。先生、いつも事象を少し斜めに見ながら「何」かあると若者の気を引きながら「何」を言いたいのか分からない。※養老タケシ大先生と同じグループ感覚なんだなぁ。

 

極私的「日本習合論」

誇大妄想的日常

古代妄想…の話は後にして、縄文土偶の古書は正月読もうと思う。

いろいろ、パソコンを整理していると、5年も前に設置してもらっていた、アナリテイクスが出て来た…出て来たと言っても引き出しの中からではない、忘れていたブックマークからぼんわり浮かんできたのだ。アナリテイクスはネットで通販している人なら、大概知っている無料の調査ツールで、自分の通販サイトが一日でどれだけの人がどこから見に来たのかなどを詳しく知ることの出来るツールなのだ。モールに出店していると今はモールのシステムの中で更に詳しく来客を調べる事ができるので特に不要だが、独立サイトの場合はアナリテイクスで調べざるを得ない。こういうブログでも昔はアナリテイクスを見て一喜一憂していたのだが…今は不要に近い…と言うよりも、現実を知り愕然とする。

あるラジオ番組で友達が何人いる?という会話があり、その年配の有名な作家が数人、いや1人かもと、答え、周りの出演者も同じような答えをしていた。もうそろそろ店じまいの年齢で、これまでの記憶を整理していくと、今更友人を作るのも面倒だし、友人は自然にできるもので、力業で出来る友人などいないのだ。

仕事をしていて、一時期、異業種交流会なるものが大流行したが、酒を飲みながら相手の腹を探り名刺交換する異業種交流会のあとの悪酔いがたまらない。先方から朝一番に出会いの感謝のメールをよみ、返信するのは苦痛いがいの何物でもなかった。

つまり、僕にもほとんど友人などいないのだ。必要もないけど。

この面白半分猫半分という、わがままブログも1週間に数名来客があるくらい、つまり誰も読んでいない、ブログなのだ。何年たっても。ではなぜ書くか。99%自己満足。死ぬ前に…ボケる前に、嗚呼、こんな事を俺は考え書いていたのかと、自己満足のためにだけ書く。ただ、書く以上は、自分なりに整理して書かないと、書く意味がないから、自分なりに整理して書いている。自分は人口知能ではないし誰かの意見を写しても仕方ない。

公共の電波、放送などで情報を発信している人は個人のブログのアクセスとは桁が違うのだろうが、そのアクセス数の中からどれだけその内容を理解できた人がいるのか?

理解できない人の数が圧倒的に多いから、記事も炎上するのだろう。そのいちゃもん付けた人の「いちゃもん」も即、消滅する。「いちゃもん」人も大多数が共感、読んでくれていると勘違いしているがそれは哀れな幻想なのだ。

ただ人間の脳の中には誰がひっかいたかわからないキズが残り、そのキズに悩まされてしまう事が多々ある。自分の言いたいことは公の電波ではなく、せめてアナログの本か、個人のブログの範囲で言いたいことを言うのがまだマシと言えよう。

たまたま、作家?評論家?の内田樹氏の新刊「日本習合論」を読む。面白そうだったから読む、ちょうど「神仏習合」について考え悩む時に目の前に内田氏の「日本習合論」が並んでいたので手に取った。内容は僕と同じレベル。内田氏も忙しいのか、おそらくべつのライターかリサーチする人、キュレーションする人の原稿をまとめたのか、ええとこどり、資料も新書的な内容のものなのか。原稿にスキマがあるから、突っ込みところ満載の内容となった。しかし内田氏のやわらかいものいいで優しく、ファン、読者は包まれる。

悪い例で言えば、タレント?の武田鉄矢氏がラジオで、ネタにするような内容で、面白可笑しく関心を引いておいて、勘違いの知識を拡散しているような内容なのだな。

内田先生が心配しなくても、日本(人)は充分、和洋折衷、神仏習合…全部ミックスして都合よく生きています。極論言えば、日本人は明治維新前に戻らない限りは、洗脳は解けないという事でよろしいでしょうか?と思う。靖国神社(天皇、特攻隊洗脳、愛国洗脳神社)が建立されたのは明治2年…そこから日本人の心はマインドコントロールされたまま。

誇大妄想的な日常から抜け出すには、結局、山奥で一人瞑想にふけりながら生きるのが唯一の脱出方なのだと思う。友人なんて敢えて、いらないのだ。

小説家になりたかった Fさんが居た。

 

nhkのラジオ、高橋源一郎さんの番組「飛ぶ教室」を時々聞く。その回は、作家の井上ひさしさんの思い出話で、井上さんが文学賞の選考委員である人の作品を選んだ夜、その本人が深夜、自宅までやってきて「これで小説家になれました。店をたたんで作品作りに専念します」と頭を下げ語ったそうだ。井上さんはそこまでしなくてもいいではないかと引き止めたが、結果、その人は店をしまい作品を書き続けた。しかし、その後書かれた作品は賞に選ばれることはなかったそうだ。つまり小説家にはなれなかった。

その話を聞いて、もう20年近く前に出会った Fさんの事を思い出す。Fさんはその当時、地方の文学賞に選ばれ、そのことをきっかけに作家活動を始めた。かく言う僕も違う文学賞にエントリーし2年続けて次席に選ばれた。その時、何かのきっかけでFさんと知り合い、僕は彼の阿蘇にある住まいを訪れた。同類の勘という奴か、二人とも同じ年、本の嗜好も似通っていた。多少、僕はその筋の本を読んでいたつもりが、彼の書庫には、僕の本棚の中身より、はるかに濃い内容の本がびっしり並べられていた。熊本に帰ってきて「桐山襲(かさね)」の作品について語りあう事が出来たのはFさんが最初で最後だった。

いろいろ話をしていくうちに、彼が太宰治に心酔していることが分った。彼は長崎の離島出身で東京の一流私大を出て、旅行のライターの仕事に就く。そして独立し有名な旅の雑誌に記事を書き、福岡で会社を設立し、海外も長らく放浪、ライターとして成功、東京事務所まで設けた。ただ有る時、彼は小説家になろうと決心、会社も解散、すべてを捨てて一人で阿蘇にやってきて、作品作りに専念した。そうして書いた作品が、その文学賞で入選した作品なのだ。彼も僕の作品を読み、すでに僕の力量も分ったのだろう。僕は彼の熱意、知識にお手上げだった。
僕には彼のようにすべてを捨てて作品を書く覚悟も、力量もなかったので相変わらず、熊本の零細企業でみじめな営業で飯を食っていた。大会社の孫請けの会社で社内にはアル中の社長と絵にかいたような窓際族の爺さんたちが、親会社ににらまれないようにびくつきながらも、こそこそネズミのような、薄汚れた溝をはいまわるような仕事をしていた。僕の次席に選ばれた作品もそんな空気の中から生まれたような作品だった。Fさんは僕の2作目を呼んで、「途中で寝てしまいましたよ」と言った。確かにその作品は「眠りの中から浮き上がった玉ねぎの皮を一枚一枚むくような物語」だったのだが僕はその言葉に、彼の意地の悪さを感じ、彼を嫌いになった。彼には悪気はなかったのだろうが、その一言を僕は許さなかった。そして僕には彼を見返す3作目を書く余裕も、力も残っていなかった。

それから、Fさんはある漫画家とコラボして童話を書いたり、地元で文学誌を主宰、発行したりしていたが、その文学誌をめくると何ともつまらない、爺様のたちの思い出文集のような代物だった。また、当時売れている雑誌のコンセプトをまるごとコピーした本を出版した。彼の名前を検索すると当時の彼の写真が数枚出て来る。彼は食っていくために相当無理をしたのだろう。彼には、一番似合わない仕事をしたのではないかと思う。

彼は小説家になりたかったのだ。井上ひさし高橋源一郎氏の言うように、好きな事を続けることが出来るのは幸せだが、そんな幸せに巡り合う人は一握りなのだろう。もし彼が同じラジオを聞いていたのなら、僕の事を思い出したろうか。いゃ、彼の思い出の中には僕の事などかすりもしない。

お互い、めくることのできるページ数そのものが少なくなってきた。小説家になりたかったFさんの事を、僕は少し書きたくなった。

少し悲しい、吉野ケ里。


この前の日曜日、寒空の下、佐賀の吉野ケ里遺跡に行った。これまで、全然関心のなかった自分がいったん、縄文やら、巨石信仰、修験道やらをかじると、やはり吉野ケ里遺跡は外せないのだ。自宅から高速で約3時間。灰色の空、冷たい風が吹く敷地の中に遺跡はある。広大過ぎて、入口もいくつかある。正面ゲート前にたどり着くと駐車場ではトラック市が開催され賑わいを見せていた。焼きそばだの、たこ焼きだの、野菜だの、もちろん古代の遺跡とは無関係だけど。ここで食い物買ったらいかん。我慢してゲートをくぐる。

入り口横に、遺跡の全体像をつかむガイダンススペースがある。吉野ケ里遺跡の年表が記されてある。この場所には朝鮮半島から人々がやって来たのだ。文化の交流、生活様式の交流、弥生式土器、建物…そしてこの集落に棲む人々は異人の群れから襲撃、収奪され、血の流れる戦があり、たくさんの人が死んだ。死んだ人は大きな甕の棺桶に入れて祀られた。逆もあったのだろう。海を渡り半島で暮らす異人の集落に仕返しに行き、収奪し人を殺し、殺された。

 

悲しいことに、この村の周りには深い堀が掘られ、先のとがった杭がぐるりと村の周りを取り囲んでいた。敵の襲撃に備え、堀を越えようとする敵を櫓から見つけて、黒曜石を磨いた矢じりで胸を射るのだ。えんえんと続く、堀の暗がりと先のとがった杭。

 

 

縄文しか、かじったことのない僕にとっては寒々しい景色だった。村にも階級ができ下っ端の家、中流の家、村長の家とすでに、古代の世界にも上下があるのだった。

集落には職業の分担もあり、酒を造る家、糸を布に編む家、畑、森、おそらく家畜も居ただろう。展示された角のとれた優しい弥生土器は、美しく「無個性」だ。

 

北部の古代の森ゾーンを歩く。この森の下にも、死体が眠る甕が埋葬されているのか。

甕には死者と死者を守る銅剣、もしくは勾玉や首飾りが一緒に眠る。甕の大きさにも身分差があり、位が上になればなるほど大きく居心地が良い広さになる。時に首の取れた骸骨もあり、これは村の戦闘隊のリーダーか、村長の若い自慢の息子か。相手に殺された首のない死体を奪い甕に埋葬したのか。

埋められた甕の数は限りなく、皮肉にもまだ発掘が間に合わない。

 

 

悪い冗談かもしれないが「死後の世界体験」として希望者に銅剣を持たし2泊3日で甕の中での仮死状態の体験をさせる企画はどうかと思う。

子供時に見たドラマ「怪奇大作戦」の世界を思い出す。怪奇大作戦で売れない魔術師が悪事を働き、主人公に追われ、箱の中に入り鍵をかけ湖に沈むという話があった。魔術師は湖底に沈みゆく時、耳元に聞こえる、あぶくの音を、過去に受けた喝采の音に聞こえ幸せそうに微笑み、静かな湖底に消えて行くのだ。

 

吉野ケ里遺跡を怪奇大作戦と同化したらいかん…が、古代の音に耳をすますには甕に入るしかないではないか。何か聞こえてきやしないか。目を閉じ冥途の世界を瞑想せよ。

結果、吉野ケ里の古代の暮らしが戦国時代、さらには現代の争いの世界に繋がるのだ。少し悲しい吉野ケ里。僕は買ったばかりの靴に足を締め付けられながらも、誰も居ない、尖った杭に守られた世界を抜け出すことが出来た。埋められた甕に足をとられないように。

 

 

大阪のおばちゃん。

僕には大阪のおばちゃんが3人居る。

若かりし頃、集団就職で熊本から大阪に出たのだ。

長女の僕の母と末っ子のおばちゃん二人が地元に残った。

大阪のおばちゃん3人の年はもう80を過ぎた。

暮らしにも少し余裕ができたのか、

10年くらい前から大阪から熊本へ同窓会だのなんだの、

しょっちゅう帰ってきてはうちの家にも立ち寄った。

 

僕がヒマな時は、全員車に乗せて人吉だの阿蘇だの観光に連れて行った。

おばちゃんたちはすでに大阪での暮らしが長いのだ、

だから熊本の事を良く知らない。山や川に連れて行くととても喜ぶ。

おばちゃんたちは当時の苦労話は一切しない。

今が一番楽しいのだ。

 

と、思っていたら、

一人のおばちゃんががんに倒れ亡くなった。

大阪の高槻で海苔問屋を営む、Fおばちゃんで、

おじさんと一緒に会社をきりもりしていたのだ。

先に亡くなったのはおじさんで、

おじさんは、和歌山の山奥、龍神村の出身だった。

(二人はどうして出会ったのか?)

 

おばちゃんより先に、おじさんは、

ガンで亡くなった。

 

ガンの抗がん剤でおばちゃんの肌がどんどん黒ずんできた。

熊本の馬油石けんやクリームを贈るととても喜んでくれて、

「贈ってくれた石けんで体を洗うと、肌が白くなんねんよ」と

嬉しそうに語ってくれた。

 

葬儀の帰り、近くの万博公園に行き初めて太陽の塔を見た。

今は人気のない公園に当時はたくさんの人が押し寄せたのだ。

そんな喧噪の中で二人は、工場で働いたのだろう。

海苔の袋詰めに寝る間もなかったのだろうか。

太陽の塔は、両手を広げツンとした顔をしていた。

 

昨日の夜に電話が買ってきたのは、Kおばちゃんからだった。

家人がお歳暮にミカンを贈ったのだ。

Kおばちゃんは、姉妹の中で一番行動的で、

卓球やらグランドゴルフやら、旅行に忙しかった。

おばちゃんは、熊本から一緒に働きに出た

ダンナさんが早くに亡くなり、女でひとつ

大阪で二人の息子を育てあげた。

性格もあっけらかんとして気さくに僕と会話をした。

 

「最近、首と腰が悪いねん」

「コップも手でもたれへん。コロナでどこにもいけへんねん」

おばちゃんは、大阪の人ごみの中を一人、

地下鉄を乗り継ぎ病院に通院していた。

 

「4時間待ちやで、行くだけでもつかれるわ」

「薬変えても副作用で吐き気がするねん」

「先生に相談しても薬しかくれへん」

「まぁまぁ、おばちゃん

もう、熊本に帰ってきたらいいのに」

 

無責任にあしらう僕の言葉。

おばちゃんの会話に少し、間が空く。

 

電話を切って気が付く。

昔のおばちゃんなら

「熊本に帰ってきたら、面倒みてくれるう?」

と言葉を返す元気もあったが。

 

神戸の息子夫婦の世話になるのも嫌だろう

気を遣うだろうし、では、これからどうする?

施設に入る余裕もない。これからどうする?

 

ひたすら地下鉄を乗り継ぎ、駅の階段に息切れし

4時間待って薬をもらい、家で吐く。

アパートの部屋で暗い天井を眺めているのか。

 

田舎に帰るより、おばちゃんにとっては

大阪の街の灯り、喧噪さえも温かく感じるのだろうか。

僕はおばちゃんの、こてこての大阪弁

大好きなのだ。

 

大阪のおばちゃん。

岩屋熊野座神社 (いわやくまのざじんじゃ) に行った。

60を過ぎ、急に神社だの遺跡だの、修験道に関心を持つようになった。この前は仕事のついでと言いながらも、実は人吉、球磨地域の視察のついでに、仕事に行ったようなものなのだ。前の晩から、どこに行こうかといろいろ調べていたが、見れば見る程、人吉、球磨地域は広い。盆地なのだが、道路沿いに車を走らせていいると右も左も田畑が広がり、向かいの山裾には霧が出て、運転していても眠くて仕方ない。結局、仕事も長引き、帰りに立ち寄る場所を絞らざるを得なくなった。そこでサイトを調べるに岩屋熊野座神社 (いわやくまのざじんじゃ)なる藁ぶきのそれなりに、古い歴史のある神社が目につき立ち寄ることにした。

サイトに書かれてある神社の歴史をそのまま引用すると…

日本遺産構成文化財の一つ。相良氏が天福元年(1233)に菩提寺として創建したと伝わる真言宗寺院。人吉球磨地域唯一といわれる、稚児柱が付いた鳥居がある。戦国時代末期、勢辰和尚により勅願寺の指定を受け中興。以後、江戸期を通じ、郡内最高位の寺院として存在。境内裏手の相良家墓地は、江戸時代中期に、藩主の命で各地に散在していた歴代当主・一族などの墓を集合し成立。多数の五輪塔などが建ち並ぶ大名家墓地として、見る者を圧倒させる…と、書かれてあり、ライトアップされた社殿の趣きもそれなりなのだ。国の重要文化財

 

実際訪問すると、重要文化財のわりには「わき」が甘いようで、あまり見るものがない。鳥居をくぐり社殿を前に立つと、周囲の家々景色と同化して、荘厳でもなく、自然体。もちろん境内には誰も居ない。境内も狭く、どこでもあるような神社にも思え、時間を持て余し、退屈になり車に戻った。我ながら馬鹿と思うのだが気が付くのが遅すぎる。神社と名が付きながら、サイトの説明文に裏に相良家の墓地があると書いてある。多数の五輪塔が立ち並ぶとも。神社とは名ばかりの神仏習合のお手本。神も仏も仲良く同居しみんなの平和を祈念していたのだ。境内を回ればお寺の後、形跡があったはずなのだ。廃仏毀釈については、その時の力関係もあったのだろう。何しろお隣は(現在のイスラム教原理派・タリバン)薩摩藩なんだから。

 

また石の鳥居を写真に撮ろうと振り返り改めてその鳥居を見て驚く。鳥居の真ん中に「権現宮」と彫られてある。これぞ神仏習合の証。神も権現(菩薩)も一緒に祀られてあったことを堂々と示す。更に、鳥居の石の根っこの部分に横たわる石碑に文字が。なんと書かれてあるのか、すかさず指でその文字の後を辿る。指先に感じる、やさしい石のざらつき感。時空を超えその当時の時間との交感。読める文字は「さやし」?

この鳥居の方が本殿よりも、価値があるような気がする。鳥居の下を行ったり、来たり。石の山道の向こうにかすむ、藁ぶきの本殿。

 

人吉は相良藩の城下町。何故、市内の景観は中途半端な、どこでもあるような都市の景色に変わったのか。今回の水害での再建では今風のおしゃれな建物ではなく、もっと城下町らしい演出が出来ないものかと思う。

あとで資料を読み返すに、本殿の裏に洞窟があり、その洞窟には大蛇が潜む言い伝えがあるという。えらそーなことを書いたが、自分自身も神社史跡めぐりをしていただけのうんちくオヤジそのものなのだけど。

 

足元の石碑の文字をなぞった指のやわらかい感覚は忘れることが、出来ないんだよな。本当は何て書いてあったのだろうか。さやし、さやし。

縄文考古館の想い出

縄文にふれたのは確か5年前、無印の本屋で縄文土器土偶の写真集と出会ってからだ。よく言われるように、その縄文本は僕を呼んだのだ。縄文ファンがよく言うように、それは雷に打たれたような衝撃…ではないが、僕はその写真集を見て驚き、感動し、縄文の電波が脳をじわーッと浸食した。こんな造形があるなんて、ったく、これまでの自分の感覚と違う縄文の完璧の感性に完敗した。手も足も出ない。どうやっても僕からは出てこない美しさ、生命力が、この茶色の土の塊の造形にある。悔しい。縄文に土下座である。それからというもの、さまざまな本、写真集を買い求め読んだら読むほど、縄文の渦は深く、僕をその網目の土器の中に巻き込み、身動きさせてはくれない。
縄文時代は1万年…その時間の中で、彼らは生まれ、暮らし、死に、埋葬された。血はつながらなくても、同じ部族で長い間暮らした。墓の骨を掘り、みんな同じ墓地に埋葬された。本を何冊読んでも縄文の時間は濃い。

6月、念願の土器土偶に会いに熊本を出た。仕事なぞほっておいた。最初で最後のチャンスかもしれぬ。熊本から京都へ。翌日早い新幹線で名古屋。名古屋から特急信濃塩尻経由茅野市へ。茅野市に着いたのは午前11時頃。案内所に聞くと「尖り石考古館」へ行くバスは昼過ぎ発とのことで、タクシーで考古館に向かう。

縄文考古館では、縄文のビーナス、仮面のビーナスという国宝の土偶2体が見れる。フラッシュ禁止だが、撮影はOKとの事。ガラスの映りを防ぐフィルターをレンズに着け、写真を撮る。満願。何も言う事はない。

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生で展示されている土器を上からのぞき、ひたすら匂いを嗅ぐ。笑う土器の破片たち。何も言う事はない。縄文電波が脳に来る。3時間は居た。

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◆胸のきらめきは雲母。

縄文の大地から褐色の土を集め、練り、固め、造形していく。何度も何度も、縄文人の手の平の土の塊から、魂の形が練り上げられていく。顔が書かれ、耳にはピアスの穴、肩は丸くなだらか何度も磨き上げられ、立ち上がる。葬儀に集まった仲間はこの像を見て、どんな顔をしたのだろう。泣いたか、微笑んだか?抱き合ったか?像の胸のきらめきは雲母。幼い姉妹が、近くの山で見つけた雲母を、夜空の星に見立てて土偶作りの作家のおじさんにに手渡したのかな…おじさんはいいアイデァだと微笑んだのだろうな…いろいろ縄文の空に思いをはせる。この部族のみんなは貧しくても幸せ。死者は土に還り、この像も埋葬され、長い眠りについた。大地に眠る魂1万年。僕もこうして、ほんの一瞬、一緒に居ります。

次のバスまで時間があるので、縄文の住居跡をうろつく。頭上には青い空、白い雲。考古館の裏の階段で「ハクセキレイ」の死体を見つける。彼(彼女)は、僕の頭上の空から僕の足元に墜ちて来た。微かに開いた、薄いまぶたの奥の瞳には空が映っていた。僕はマスクをとり、亡骸を包み草むらの葉の影にそっと隠した。

今、このひと時が縄文の空と1万年の時空を超えて繋がっている。茅で葺いた住居跡の写真を撮ると、偶然にも、風に揺られて樹の小枝同士が手をつないでいるような写真が撮れた。

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周辺を歩き「尖石」の本尊を見つける。この地区の名前の起源なのだ。
僕は生きている残りの時間、「ハクセキレイ」の事を考え続けなければ、ならない。